七割引の卵だ。割りたくねえ、という声を合図に早足になった。人ごみの繁華街を、それまでノロノロぶらついていたのから一変して景色は流れ去る。通過した薬局の自動ドアが開くメロディが耳をかすめ、目の端では吸殻を捨てる野郎の手がブレた。右手だ。次の角を右に。黙ってても伝わるそれで路地へと曲がる視界が、夕方に染まる。瞬間それしか見えない。気が遠くなる。電線の果てに沈む今日を。荒い息で、ふたつの影が行く。尾行を巻くか、ここで片付けるか。それは車のとめてある方角を通り過ぎた時点で決まった。左腕で汗をぬぐった。左の道に入る。歩きまわるにつれ暮れていく。自転車のベルが自分たちを追い越していって、その風の中で卵パックの入ったレジ袋を持つ手を左に変えて曲がる。夕日の反射。ジグザグに迂回した先に再び戻ってきた人波にまぎれ、吸いこまれるようにパチンコ屋の洪水音に逃げ込んだ。ついでに打ってくか?狭い通路を走り抜けながらの戯言に飛んでくる蹴りが、持ってるレジ袋をかすめた。危ねえ危ねえ…中の卵を守って、床に積まれたドル箱をすんでのところで跨ぐが、さすがにふらついている。突っ切っていった先の、裏口から出た。振り向き際に確かめた限りでは、追ってきていない。背後の喧騒が遠ざかったかわりに、むっとくる腐臭で息を詰める。出てすぐの鉄錆の階段をのぼっていく。バラついた足音が、狭い夕空を震わす。駆け上がる足からサンダルが脱げ落ちていった。それを躱す顔が、散った髪の奥の眼で、こっちを射抜いた。落ちたものは戻らない。片側だけ裸足で踏みしめる鉄の熱に、足の皮を焼かれる痛みで、笑けてくる。のぼる足音が、自分達だけなら楽だった。のぼりつめた果ての扉は、開かなかった。錆びた錠前をぐっと握って、離した手のひらを見る。これでも必死で護ったつもりの卵は、ほとんど割れていた。
「……明日は資源ゴミだっつうのに」
 割れた卵の一個を手にしながら、溜まりに溜まったジャンプに思考を飛ばす。洗濯機を回しっぱなしにしてきた部屋を思う。今も無人の部屋で、うるさく振動し続けている光景を思い描いて、あっというまに色褪せた。あ、そうだ。お前、ドアポケットの卵ケースにヤクルト置くのやめろっつってんだろ。配置変えられると面倒なんだよ。前もそれで、ゆで卵との見分けつかなくなって、どんだけの卵を犠牲にしたと思ってんだ…?今言う事じゃない言葉でつらつらと動く口に、冷蔵庫に置いてきた飲みかけのイチゴ牛乳を流し込みたい。アレには他にも色々、賞味期限切ればかり詰まっていた。頭どころか体全部おさまりそうな無駄にでっかい空洞に、腐りかけのもんがいっぱい詰まってた。なんだっけ。思いだせない。目をふせた。これまでのツケが、複数の靴音で下から迫ってきている。
「あァ、じゃあ、先にくたばった方を冷凍すりゃあいい」
 指から垂れたカラと黄身を、舐めるように見てくるその眼が、ク、と笑った。煽られる。それはどの夕方より眩し気で、ろくでもない。自分達に向かって、わらわらと足音が集まりはじめる。刺さる殺気。もう背後まで、迫っていた。音もなく振りかざされた最初のナイフに振り向く刹那、互いが見えて、ああ それは明日にも、