銀高ワンライ:頬






 ドミノ倒しになった自転車たちが、眩しい。どこを見たって影のない、この炎天下を微妙に救ってくれる風が、坂田の半袖をはためかせていた。入学以降、一度も洗っていなかった制服を昨日洗ったばかりだった。自分じゃ見えない背中には、たぶん汚い足跡がついていて、なぜかそこからジリジリと焼かれていく感じがする。雲ひとつないのに雫が見えた。垂れてくる汗だった。雑にぬぐう。どこもかしこも、べたついた肌。足元に転がる最初の自転車に手をかけた坂田は思わぬ皮膚が焼ける熱さに派手な音立てて落とし、それに靴下越しの爪先を潰され呻いた。痛さに、しゃがみこむ。それでなくとも、さっきの喧嘩で生傷だらけへ、さらなる地味な仕打ちを受けた。アスファルトも靴下ではきつい。履いてる方で引きずるように歩いて、今度は焼けるのを覚悟で自転車の首を掴む。持ち上げて立たせ、また次の自転車の首を掴んで、というのを順に、延々やっていくうち手の皮はボロボロになった。ポタ、ポタ、と降りかかる雫が、濃い道路に吸いとられていく。油蝉の声に混じって、どこからかする風鈴の音にこの夏を思った。初めて知る女の体より、頬の切り傷をたった一度なぞってきた硬い指の感触の方が焼きついているのはどういう訳か。いくら考えても答えの出ない、自分たちの宇宙。何十台もの自転車を立たせていく気の滅入る作業を、ひとりで黙々とやり遂げた坂田はいよいよ最後の首に手をかけた。それは、ぬめっていて滑らかに隆起している。他の誰の指紋も、ついていない。
「俺のアイスで冷やしてんじゃねーよ・・・」
 言うと、手の皮を通じて喉仏が動くのがわかった。笑ったみたいだった。空だけを見ていたその目が、坂田を映して透き通る。たまに息を呑むほど、まっすぐに貫くその眼に、他の全部が見えなくなる一瞬が、坂田にはあった。高杉の、眼だった。自転車より立たせるのが厄介そうな高杉の体を、坂田はただ見ていた。夏でも学ランを脱がない高杉の、取れかかったボタンが陽を吸って煌く。その胸に乗っかっているのは見当たらなかった坂田のスニーカーで、せっかく買ったのに溶けてしまったアイスキャンディは高杉の頬の傷を冷やしていた。かつて、女を使ったふいうちで高杉の腕を根性焼きすることに成功した上級生は、直後、窓ガラスを体で破る羽目になったが、今回はまァ、その報復だった。坂田の背中の足跡は、そのとき出来た。何人もの相手をしてさすがに疲れてきた頃、目の覚める蹴りが背中を襲ったのだ。たたらを踏みつつ振り向いた際の、悪びれもなく靴底を向けてきた高杉の「あ悪ィ、間違えた」に、多勢に囲まれているのも忘れて標的を変えた坂田の蹴りは高杉の頬だけを掠った。空中で足首を掴んできた指の感触と、交わった目に、脱げていくスニーカーの靴紐が踊っていた。そのスニーカーに今、高杉を踏みつけるかたちで足を突っ込んだ坂田は、ほどけた靴紐が高杉の鎖骨に垂れて泥をつけているのに目をやる。それから頬の傷を濡らすアイスの溶け具合も。放っておいたら道路で焼肉になりそうな高杉の手首を掴んで、自転車と同じく立たせた。夏の暑さだけじゃない、高杉の体温で溶かされていくアイスが原形をなくしてしまう前に取り返す。破れたビニルのギザギザが風にひるがえる。そこから溶け出すアイスキャンディをべろり舐めとった。高杉の頬に残る、己の靴底の痕を指でなぞりながらアイスキャンディをシャクシャク食べていく坂田は、この夏も自分といた高杉の体温が口の中にまで、かなしく沁みてくるように思う。

2018.03.17/靴痕