土方が目を覚ましたのは正午前だった。
けだるい身体をひきずりながら乱れたシーツの皺をのばしてふたりぶんの布団を畳む。真昼、そこに生活の波音が押し寄せる。ネギを刻むのや湯を沸かすのや食器のぶつかるのや洗濯機をまわすのや、どれも久しぶりに触れるたぐいの生活の波音に、畳んだ布団を端っこに引きずって襖をずらしたら、はいりこんできた風に枕のカバーが波打つ。まなうらを染める真昼のひかりはそれなりに痛みをともなうもので、それだけでくらりと倒れそうになっている土方の耳に、「お前、寝すぎ」、それこそ昼にふさわしくない、しゃがれた声が触れた。そいつの両手にある、味噌汁の椀からあふれだす湯気にまたくらりとなる。
歯ブラシの封をやぶって捨てるときにこないだのラブホのだと気づき、眉間にシワが浮かぶ。うしろでまわる洗濯機の振動、男がつけたらしいテレビから流れてくる、のど自慢のオープニングの気楽さが、うがいの水を吐く際の、うなじに触れる。床につけている足のうらが冷たくて片方だけ浮かす。ミントの粉の混じった水が渦をまいて排水溝に吸いこまれていく。そのへんにあったタオルで顔をぬぐってから、かすかに伸びた髭をゆびで擦る。
さきに食べはじめている男の横顔が逆光で、その光景ごと霞んで数秒だけ立ち尽くす。床に傷を見つけ、これまで何回ここを椅子が通ったのかなどと余計なことを思う。塗りの剥げた箸で椀の底、溶けていない味噌を掻きまわしながらテレビへと目をすべらしたら、知らない歌ばかりだ。たいして上手くもないやつに鐘三つが鳴った。
「ところで昨日おまえ俺に何言ったか覚えてる?」
鮭の身をほぐしながら同時にテレビに向いて「今の、合格だってよ」、「まァ妥当じゃねえの」というやりとりを交わしたあと味噌汁をすする。覗きこんだ椀の底にはネギだけ残された。「……覚えてるし冗談でもない」、いまからフラれるのかとおもうとそれなりに心臓は軋んだが最後にこいつのつくった朝飯だか昼飯だかを食えてまァよかった。湯気のむこうでやっぱり男のかおはひかりに溶けていた。こいつの生活圏にすこしだけ踏み入ってそうして出ていく、それだけの。……あ、なんかやっぱ心臓いてぇ。
「ハァ、なあやっぱ言わなきゃだめ?」
「ああ、さっさと言ってくれ」
そんでさっさと楽になりたい、と思っていた。なのに。
「……俺のほうが一キロ重い」
「は」
それはいったいなんのはなしだと突っ込みたかったが素人のへたくそなバカでかい歌声に阻まれてしまった。はなしを振られるまでうやむやにしようとしていた自分のことは差し置いて、あからさまな話題のすり替えが憎いとおもう。それなりに構えていた。箸を置いた。テーブルが揺れる。
「だから」
どうやらすり替えの話題はつづくらしいと目線を落としかけたところで、
「だから、……愛も、 」
そこで鳴る、鐘ひとつ。に掻き消されてしまった最後のほう。たまたま部屋からひかりが波のように引いていかなければ、くちびるの動きをよみとれなかったかもしれない。
このとき瞳に焼きついたもの。食卓をすべっていくカーテンの影、椀の底にのこるネギ、テーブルのすみに置かれた男の手、うつむいた銀髪が風でめくれ数秒だけあらわになった。このさき何年も思いかえすことになるこれらも今は刹那で終わった。「言ったからな」、喧嘩でも売ったかのような捨て台詞を残し、ふたりぶんの皿を重ねて逃げるように立った男の背中を呆然と辿ってから。抱えこむようにひたいで指を組んだら、いよいよ堪えきれない。どうやら向こうもそうだったらしい、何処かで皿が割れたようだ。
2014.11.21/ヘビィな愛