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8.クーマ:向日葵、氷菓、影







 記憶にかする家の前までやって来て、そこの表札にぐっと顔を近づける。最早かすれて読めないそれを、銀時の眼が舐め回す。これ、かまぼこ板なんでさァ。先週、そう言って沖田が指した表札で間違いない。言われてみれば魚臭いような、ところどころ煌いて見える気のする木目は、かつてこびりついていたかもしれない練り物を想像させた。
 その下にある呼び鈴を押す。と同時、普通ではない大音量が耳をつんざき、ビクっと跳ねた。目の前の家と、銀時の頭蓋の中で跳ねまわるその音。あまりの反響に、防犯ブザーでも鳴らされたのかと思う。ここは訪問客すべて不審者扱いする家なのか? 銀時は、後ずさる。後ずさったそこで、じっと耐える。出てくる気配はない。もう一度、あの音を響かす勇気もない。たら、と顎から滴った雫が喉仏を下る。鎖骨を通る。へそに溜まる。
 炎天下の中、人を呼びつけておいて不在というわけか。
 これでタダ飯にありつけるアテもなくなった……。
 幻覚でも泳ぎはじめそうなこの陽射しの中、服を着ている意味を見失い、肌にはりつく布を鷲掴む。そのまま襟ぐりをたくしあげ、躰から一気に引き抜いた。最後にすぽんと抜けた頭を、振って眩む眼の下で、黄色くちらつく何かがあった。玄関先に咲いた一輪の向日葵が、陽を遮って立つ銀時を仰ぎ見ている。眩しく射してくる花弁と、暗い穴のごとく密集した中心と。物欲しげに揺れるそれに目を据えたまま、銀時は脱ぎたてのTシャツを捩じって絞る。銀時の汗を吸った打ち水が、ビチャビチャ飛び散る。振り撒かれる。
 股倉に挟んでおいたレジ袋を手に持ち直し、回れ右をした。どこでもいいから涼しい場所へ行きたかった。誰かの影でもいい。そうして道にふらふら出て行きかけた銀時は、そこでヒタリと静止する。誰か来る。地面を動く影は、人の形に違いない。その人影は、この陽射しから逃れるには全く足りていないし、それ以前に今の自分は、ぱっと見、人の家の前で半裸で突っ立っている男にしか見えない……いやたとえ、まじまじと凝視されようとも、ただの半裸男にしか見えない……影の中に入れてもらうどころか、それこそ防犯ブザーを鳴らされるかもしれない。銀時の中を、茹だった思考が駆け巡る。
 そうこうするうち道の影から、女の匂いが瞬いた。ただの通行人ならよかったものを、そうではない女の目と合った。家の敷地内に立つ不審な男をとらえて立ちどまった女はしかし即、警戒を解いた。弟の友人という、ただそれだけの認識が、よく知りもしない得体の知れない男の存在を許したらしい。そうして許された銀時は、沖田の姉であるミツバという女の瞳に映された。自身が半裸なのも忘れ、銀時は口を開く。
「遊びに来た」
 手に持ってたレジ袋をぶらりと揺らし。「これ土産。溶けてっかも」
「まァ、そーちゃんに?」
「いや俺に。俺が食いたいが為に買ってきた」
「ふふ。こんなに食べるの? 独りで? 舌が霜焼けになってしまいそう」
「へーきへーき。俺は昔、凍った地面も舐めたことがある」
 そうした立ち話の間、ミツバを見つめる銀時の意識は、(脱がせやすそうな服……)という事にばかり向いていた。上も下も、そうだった。前開きのボタンは容易に外せそうだったし、波打つ裾のラインはどこからでもたくしあげられる。つまり楽に、裸を晒せる。女の肘にかかる袋に、銀時はさりげなく視線を落とす。下着の線が透けて見えるように、袋の中身が薄っすらわかる。案の定、そこに透けて見えるのは『内用薬』という字面だった。その分厚さから見て、かなりの薬の量だった。
 ふいに重なっていた影からミツバが出る。その拍子に漏れた微かな喘鳴。それは女の胸に聴診器を当てて聞くかのごとく生々しく、銀時の中を吹き抜けた。確かにミツバの中から聞こえたそれに銀時が振り向くと、玄関が開け放たれていた。物の見事に、家の中身が丸見えだ。曝け出された裸の家の、奥の方からむっとちらつく生活臭。育ちきった、姉弟の暮らし。ここに息づくミツバの影を、銀時はまっすぐ見つめた。それは向日葵の、密集した中心と同種の影だった。入って、と言われるままに踏み出す足が、敷居を跨ぐ。銀時の侵入を拒む、その家の匂い。完全に着るタイミングを失ったシャツを握ったまま土間に立つ。一段上から注がれる女の視線を銀時は感じた。汗にまみれた裸の胸に注がれる無害なる眼差し。銀時はその上がり框に腰をおろす。脱ぎかけたサンダルの、中敷きについた黒ずんだ指跡を銀時は見せびらかして、「汚え足で、あがっていいの?」。そんな風に尋ねておきながら、それ以上、家には上がらなかった。その場でアイスの袋を破り出す銀時を見て、ミツバも膝をつく。開けっ放しの戸から光りが黄色く雪崩れ込み、膝から下を染めあげる。陽に擦られ、自らの毛羽立つ脛毛に数秒目を落とし。その光りを、そこの向日葵から零れてきた雫の色のように思いながら、銀時はアイスの塊から袋を脱がす。氷菓と書かれた袋が脱げ落ち、青い氷の塊が露わになった。「溶けててよけりゃ、食う?」俺の股倉で挟んだやつだけど、と、これから舐めて齧ろうというそれに、余計な一言をつけて。そうして、どろりと汗を掻いたその塊を、ミツバに手渡そうと体を捩る。手を出すミツバ。ポタポタ落下する大粒の雫。ミツバの掌にもそれは落ち、あ、やべ、と銀時は咄嗟に手元のシャツを使って拭いとる。みるみる青く染みていくTシャツを、もう着る気も起きない。半裸で帰ろう。暑いし。女の掌を汚いシャツで擦りながら銀時は、気楽にそう考えた。思考の殆どを、夏の彼方に投げていた。そのからっぽの頭に、またあの喘鳴が聞こえる。か細く、生の熱で籠もる。今度はすぐそばから、直に吹きつける。
「私も裸になれたらいいのに」
 一息でそう吐き出した女が、喘鳴する肩の、さざ波。「え、」と間抜けに口を開けた銀時の裸を映す、ミツバの眼に切に籠もる。別の男の裸の残像。

2019.08.16/裸の家