小学生の手が扉を押すより先に中から開いた。背負ったランドセルの重みでのけ反った子の頭上に、ぬっと大の男が立ち塞がった。それは殆ど仰ぐに近い。男の薄っぺらい眼鏡に映しだされた小学生は「あ……」と漏らした。眼鏡の奥の、男の眼は冷え切って見えた。そこは何もない海原に放り出されたような、途方もない眼底だった。息を忘れたのは、ものの数秒で、どうにか尿意を思いだした子どもは、中へと駆けこんだ。ぱかぱかと跳ねる留め具の外れたランドセルを気だるく見送った後、男は濡れた手をハンカチで拭いながら、明滅まみれの狭い通路を突っ切っていく。出口の手前、密集するプリクラ機のカーテンの隙間にちらつく女子高生の生足に視線を下げ、また上げる。春の陽気。一歩出た外は、陽射しにまみれていた。それに身体中を射された男の、陽にまみれた眼が擦りきれる。「眩し……」 一旦は出た足が回れ右で、中へと引き返す。
 男は腕時計を見た。文字盤を滑っていく針は確実に、日没へと向かっている。再度ゲーム光線の中を、適当にうろつく。水槽の魚を見て回るみたいに、行ったり来たりした。そのうちクレーンの箱にベッタリはりつき始める。そこにぎっしり詰まったぬいぐるみで男の視界は埋もれる。男が身じろぐたび、コツッと鳴った。襟につけたバッジがガラスを叩く音だった。剥げた天秤の象徴を男の手が覆い隠す。男はいつも外し忘れる。トイレの鏡でも気づかなかった。
 散々ガラス越しに眼をそそいだ後、男はあるだけの小銭をそこに投入しはじめた。BGMのクリスマス・メドレーがけたたましく回りだす。それは年中クリスマス・ソングを響かすUFOキャッチャーだった。男の意識はそこにズブズブと浸っていった。ボタンとジョイスティックの上で延々手を動かし続ける。手を傾けている間、奥方向に向かって迫っていくクレーン……それを見据える男の眼中でアームが開く。ぬいぐるみの群れめがけてクレーンは降りる。閉じかかるアームの爪が、積み重なったぬいぐるみの群れを崩す。崩しただけで何ひとつすくわず、宙へと帰っていった。
 その一連の流れを男は繰り返す。何度もすくって、何度も落とす。すくっても、すくっても、すぐ落っこちる。すくえたと思った瞬間、重みに負ける。不毛に流れ去る時間。呆と映り込む男の顔と、中で逆立ち状態のぬいぐるみがガラスで重なり合う。何周巡ったかわからないクリスマスの果て、すくい損ねてボトッと落下したぬいぐるみの円らな瞳の中、男が財布を掻き回す。小銭が尽きたらしい。周囲を見回して目についた両替機にまっすぐ向かう。クレーンから離れる。そうして男が離れたのと入れ替わりに、新たにそこに近付く影があった。今まで男が居座っていた場所に立ち、小銭を投入する。揺れるランドセルの光沢。幼い手がボタンとジョイスティック上で小刻みに動きだす。この遊び場に普段から何時間も居つく小学生の低い目線上、ぬいぐるみの山めがけて、アームが開く。すくわれた足だけ持ち上がる。宙吊りにされたそれが、両替機から戻った男の目に飛び込んだ。それを操る元凶のランドセルまで目線を下げた男は、クリスマス・ソングに紛れて舌打った。小学生に横取りされたその場所を見据えた状態で、男は通路に突っ立った。バカみたいに札束を小銭に換えてきた、その硬貨の感触。今カツアゲにあえば、激しくチャリンチャリンいいそうな男の背広のポケットの膨らみ。そこに手を突っ込んで硬貨を混ぜる中には、外した天秤のバッジも混ざっている。
 大の男に真横に立たれているにも関わらず、小学生はクレーンを操り続けた。小学生はここに立つたび、生まれついて馴染みのないクリスマスに浸った。年中、浸った。この一角は、年中クリスマスなのだった。ぬいぐるみに、アームの爪がぶすっと食い込む。そのまま、あっさりすくわれる、ぬいぐるみの顔。爪に引っ掛かったまま、帰ってきたクレーンが景品ダクト上でアームを開く。男が何度もすくい損ねたそれがダクトに落ち、眼前からふっと消えた。
 落とし口に屈んだ小学生の手がアクリル板を押して、中から掴みとった。男はその光景を見つめた。小学生の手におさまった、ぬいぐるみの柔らかな輪郭に、男のピントがぼける。
 道を塞ぐように狭い通路に突っ立っている男の元へ、胸に抱いたぬいぐるみと共に小学生が来た。ぶつかる手前で背伸びをした小学生が、男の胸にぬいぐるみを押しつける。力なんて無いに等しいそれに、男はよろめいた。見下ろす先で、ぼやける柔らかな塊。
「おじさんにあげる」
「え?」
「さびしそうだから」
 押しつけられた塊が、男の途方もない眼底に、柔らかく波打つ毛波。そっとそれに触れると、小学生の手は離れていった。ぬいぐるみ並みに、柔らかそうな掌だった。そうしてランドセルが駆け去る寸前、その横にキーホルダーでぶらさがったマヨネーズ色のファンシーなおじさんが、男の目の先で跳ねていった。

2020.01.19/年中クリスマス