5、

 海中からひきずりあげられた坂田は、イカスミみたいな夜空のもとに転がされた。乾いた掌で濡れた頬をペチペチ打たれると、どこかに逝っていた意識がげえげえ胃の腑から迫りあがり、体内から吐きだした海水に混じる血は、複数のビーチサンダルに荒らされる。足跡つけられまくりのボロ雑巾よりも、ひどい有様だった。再び地獄に突き落とされるまでの短すぎる猶予のなかで、うまくもない饐えた空気をとりこもうと肺だけが必死に喘いでいた。いいからさっさと落とせよ。虫の息で笑いながら坂田は、胸倉を掴んできた誰かしらに唾を吐きかけた。朦朧とする輪郭が、よし次は三分にしよう、と言うのが聞こえた。そうしてまたひきずられるシャツからぽたぽたと落ちていく雫が、やけにゆっくりと目の端に消えていくのがまるで死にに行く足跡みたいに思える。落とされた海は、冷たすぎていっそ温かかった。縛られた両足の拘束をひきちぎろうと力をこめたが余計に沈んでいくだけだ。水面に向かってもがく手が、届きもしないのにそこにゆらゆら動く光を求めてみっともなく暴れる。海水に混じる血。水中まで届く嘲笑。いっそこのまま死ねたなら楽だったろうが、運が良いのか悪いのか陸と繋げられたロープの方がちぎれて坂田は海流に飲み込まれてしまう。生きるか死ぬかの瀬戸際、足を拘束されていることも元々泳げないことも、ひたすら酸素を求めてもがく脳が凌駕した。命からがら這いあがった何処ともわからぬ埠頭で、げえげえ海水を撒き散らしながら、あれだけ求めていた空気が少し吸いこんだだけで堪らなく痛いと喉をひきつらせた。死んだと思った夜が明け、這いつくばった角度で一度だけ見あげる。こんなものは触れたところで一秒ともたない。一瞬で乾いてしまう。それほどの強さで、つらぬいてくる光。それに向かって坂田は、
「なんだ、テメェか」
 と吐きだして、痛いほどの逆光に白く潰された男に目を眇めた。
「悪かったな俺で」
 その土方が吐きだす煙に染みる目をおさえて仰向けになり、
「あの頃、お前がフった女はみんな俺好みのおっぱいだった……」と、欠伸混じりに言う。
 その坂田を見て、「寝ぼけてんのか?」と唇から煙草を離した土方は昨夜あれだけ吐いたせいか顔色が悪かった。なにげなく腰をさすろうとするその手をとらえると、なんだよと煙を吐きだす土方のつれない瞳と合った。そのあと煙草を砂時計の灰皿に落とした土方が「あちこち痛ェ」と呟いて横たわる剥きだしの尻に「俺も何年かぶりに朝勃ちんこが痛ェ」と言って半勃起を押し付ければ肘で殴られる。
「幾つだテメェは」
「高校生だろ」
 親指でさすった土方のそこはまだぬかるんでいて乾いてはいなかった。それだけで強張る身体をなだめるように土方の耳の突起に唇をつけ、啄ばむようにくだっていきながら押し進めた二本の指で中の具合をたしかめる。「スゲェやらしい音すんだけど」と耳にこもる坂田の声が告げるように自分の体内から聞こえてくる湿り気が朝を汚す気がして土方は奥歯を噛む。すぐに抜けていった指と入れ替わりに亀頭を含まされ、急に窓からの夏の陽が熱く感じた土方のまぶたにひたいからの汗が伝っていった。同時に土方の中にこみあげた吐き気を、坂田の呻きが払いのける。まわされた腕にふれて息を詰め、かたちを覚えさせるように擦りあげてくる塊が熱くてたまらないと感じながら土方は短く喘いだ。「また吐きそうか」と問いかけながらも土方の中を激しく行き来しはじめた坂田の荒い呼吸が水の中みたいだった。
「……っ膝あげろ」
「ってめ、待、っ…ン、ぁあ、っあ」
 横向きのまま土方の膝のうらをすくい、ちょうどよわい場所に当たる角度で潰すように出し入れする坂田の歯のすきまからはっはと漏れる。眩暈に似た何かで脳が揺さぶられて思考まで潰れていくなかで何度も、いく、いく、と昇りつめて嘔吐する土方の声が、坂田の底の底まで痙攣させた。


「そんだけ吐いたら胃からっぽだろ、涼みがてらどっか食いに行こうぜ。最近、三丁目んとこに寿司屋できたんだってよ。フルオーダー制の電車が運んでくる次世代型」
 という坂田の声かけに、誰のせいだと悪態吐きながらも曖昧に同意した土方は、
「前から思ってたんだが、これグロくねェか」、タオルケットのサメをまじまじと見た。
 見れば見るほど悪趣味としか言えないジョーズもびっくりのサメ柄に、「あぁ、ヅラのトンデモ土産」と坂田はトランクスに足を突っ込みながら答える。ヅラ?って桂か、と昔の記憶を呼び起こしている土方の横で坂田は足を使って布団をたたみ、そこからそのタオルケットをつまみあげた。
「アイツの悪趣味はあらゆることに発揮される。部屋に置きたくない土産なんてまだマシな方で、昔、チャリを撤去されたっていうからついていってやったらアイツが乗って戻ってきたチャリが冗談抜きで他人のふりしたくなるレベルだった。ベルが目玉オヤジだっのが忘れらんねェ……。他にもアイツの人妻コレクションを渡鬼に差し替えたのがバレたときのキレ具合がヤバかった。辰馬の机が宙を舞った」
「……もしかして授業が一時中断になったアレか」
 コインランドリー行きの袋に突っ込まれたタオルケットのサメがなんとなく哀れに見える。


 コインランドリーは灼熱地獄だった。
 ひとつしかない丸椅子を坂田が使っているせいで土方は直射日光の当たる入口に立っていたが、背中を焦がすような熱さにずるっとしゃがみこむ。それを横目で見た坂田の口からはハムとキュウリがはみだしていた。コンビニの冷やし中華で夏を感じている場合ではない。来週が試験って知ってたか。知ってるけど。という朝から何度も繰りかえしたやりとりのあと集中できるわけもないのに問題集をひらきはじめた土方に呆れて、「お前の辞書に息抜きって言葉ある?」と箸を置いた坂田は最後の一滴を啜りあげた。さっきから問2ばかり何度も辿っている土方の苛立った目がだんだんと虚ろになってくる。「テメェといると倍速で脳細胞が死滅していってる気がする」
「ところで冷やし中華はじめちゃってるが、寿司食いに行くっつってなかったか」
「あ?行くけど。その前の腹ごしらえしてんだろ」
「……マジかお前」
 今度はコインランドリーよりもさらに灼熱の軽バンだった。
 げ、忘れてたと言って坂田が助手席からすくいとった板チョコが、掴んだだけでぐにゃりと変形して銀紙から液状で漏れた。思わず「T-1000……」と呟く土方に、「あ、お前ジェニシス見た?」と坂田が返したことでターミネーター談義がはじまった。「1と2へのオマージュが熱すぎたぞ……」「老化の説明には笑った」とダラダラ続けているうちにようやく効きはじめた空調からの風が汗臭い。ナビで寿司屋の住所を調べながら包装をやぶった飴玉を口に放りこんだ坂田が、車をだそうとハンドルに手を置いたその瞬間、とつぜん後部のドアがスライドして、ふたり同時に振り返った。陽の光に目が眩んでいるうちに当たり前に乗りこんできたその男を見て、即座に「降りろテメェェエエ」と叫んだのは坂田である。ふいにその男、高杉と目が合った土方はピリッと肩に痛みが走った気がして布越しに肩をおさえつけた。「何フッツーに乗ってきてんだテメェ、降りろ今すぐ降りろ!!」とツバを飛ばす坂田に向かって高杉は「三丁目の寿司屋だろ、奢ってやるよ」と陽に透けた青白い顔で答え、煙草を吸う。煙くなる空気にふいに土方は、俺があの灰皿を使用していることをコイツは知ってるのだろうかと思い、また布越しに肩をおさえつける。
「おご……いや怖ェよ、お前の奢りって響きがもう怖い」
「いやちょっと待て、なんで俺らがスシ行くこと知ってんだ」
「てめーらの声が外まで筒抜けだからだろ」
 同時に硬直した坂田と土方に、「盛りのついた猫よりひでェ」という高杉の発言も、どこから取り出したのか、その右手でウィンウィン言わせている物もとんでもなかった。
「なんつーもん握ってんだテメェは!!どっから持ってきたソレ!!」
「……もういい」
 そこでなぜか土方も煙草に火をつけだし、は???となった坂田はその土方に射す陽がまぶたを青く透かすのを見る。舌で転がしはじめた飴が歯にあたってカチンといった。
「どうせバレてんなら仕方ねェ。……高杉。邪魔だけはするなよ」
 坂田の喉に、でっかい飴玉が吸いこまれていった。
 高杉がまるで腹の底から可笑しいとでもいうような笑い声をだす。
 そのあと死ぬほど噎せはじめた坂田に「はやく出せ」とシートを蹴りあげた高杉の右手では、いまだにウィンウィンがうねっている。それを肌で感じてもほとんど吐き気がこみあげないどころか久々にまともな空腹感をおぼえて土方は「こっから何分だ」と運転席を見たのだが、むせすぎて涙目になっている坂田の答えはまったくもって解読不能だった。「……お前が吐くのかよ」
 オープンしたばかりの噂の寿司屋は、どっから湧いて出たと思うほどに人で埋め尽くされていた。そのほとんどが家族連れ、四方八方を子どもの声に囲まれて日曜日を感じているところへ土方の携帯が振動する。そこに表示された名前をたしかめてから立ちあがった土方と入れかわりに坂田が戻ってきた。「七組目。……土方は」、高杉が親指で指した方角を辿った坂田の瞳に、炎天下に曝された土方がガラスを通して朦朧と映しだされる。陽に溶かされたその横顔を見て、いつもかかってくる着信の相手だと坂田は直感した。その坂田めがけて高杉が、むしっていた爪の甘皮を飛ばす。
「イクラとウニ来たぞ」
 寿司をのせた電車がやってくること数十回目。冷酒を啜っている高杉・土方とは裏腹に、帰りの運転ジャンケンに敗れた坂田はひとり湯のみに茶の粉末を足す。あとに何も残らない取りとめのない話を咀嚼の合間に挟んでは、時々、三人の視線が入り混じる。〆の甘味を求めてタブレットに触れる坂田の指先や(「なんだこのフロマージュアイスモアって」)、醤油を垂らす高杉の手元が狂って袖を汚したことや、なにかの拍子に「うめェな」とこぼした土方の声がするそばで、行ったり来たりする電車。それが最後に運んできたのは、乗っかったマシュマロがどこか坂田に似ている、見るからに甘そうなやつだった。


 あたまをぶつけて目蓋を跳ねあげた土方は完全に家だと思って「山……」と漏らしてしまってから、北向きの部屋ではありえないほどの夕日に包まれて一瞬どこにいるのかわからない。
「山じゃなくて海だけど」
 耳に入りこんできた声に、ようやく現実と繋がって眉間をおさえた。「やべェ左腕がねェ、」「どういうことだよ」「感覚が……」、変に体重をかけていたせいで肘から先がまったく感覚がなく、血が通っていないようだった。ふれると痺れがひろがるそこをさすりながら、あらためて見たフロントガラスからはたしかに海が見渡せて、それはいつも近くにあるドブ海とは違ってひとつも濁ってはいなかった。オレンジを反射して波打つ飛沫を、土方がガラス越しに見ていると、
「こういう海もあるってことをたまには思いだすのもいいだろ」
 とハンドルに凭れかかった坂田がつぶやく。「……あァ」その土方の声が体内に染みていくのを感じながら、夕日に侵されている目の奥が、徐々に乾いていくのを坂田は感じる。一度瞬いて薄っすらと湿ったそこに映る。遠い目をした土方が、「普段いかに窮屈な所にいるかががわかる」と言った。眼前の海は、どこにも行きどまらなかった。疲れの蓄積された眼が、やわらかくほぐされていく。坂田は、乾きすぎて潤んできた目を遠くの海から剥がして、近くの土方へと滑らした。ハンドルに凭れた角度から見る、夕日の色に溶かされた土方の輪郭に目を細め、過去も未来もない、今この瞬間を凝縮した痛みがそこに走るのを坂田は感じた。やがて夕日が落ちきって「まだなにもかもが赤くみえる」と目を擦った土方が、その直後に、「凧だ」、と呟いたのでその目線を坂田も追う。不安定なそれが風にひるがえるのを見ながら、「随分、高ェな……」「どっから飛ばしてんだ?」とふたり一緒になって遠くの海岸に目を走らせていたら、突然、フロントガラスを横切っていった何かにぎょっとなる。小学校低学年ぐらいの子どもふたりが糸をたぐりよせながら駆けていったのを見て、「ここかよ」「意外と近かった」、なんとなくそこから細い糸で繋がる凧を無言で追った。徐々に暗くなる空に溶けこんでいく凧。それは、「待ってよ兄ちゃーーーーーーん」と追いかけていく幼い声が涙で潤みはじめると同時、あっけなく落ちていった。そこで思いだしたように土方が後ろをふりかえると、疲れきった子どもみたいな寝息で、高杉の胸が上下していた。
「こいつの寝顔は貴重な気がする……」
「これは年に一度あるかないかの爆睡モードだな。こうなったら朝まで起きねーよ」
「へぇ。……つまりは朝まで邪魔が入らねェってことか」
「っゲッホ、ゴホ…ッお前、さっきから何、」




 最後の試験を終えてペンを投げたら、「やっと終わったな」と頭上に降ってくる。あの頃、近づくことがなかった距離をあたりまえに飛び越えて、坂田が土方を見ていた。ここが教室だからだろうか。それを土方は、あの頃の若く、どうしようもなかった焦燥と重ねながら、「終わったところで俺達に夏休みはねェけどな」と答えて立ちあがる。坂田とつれだって出て行く際、目の端でとらえた教室は、あの頃と同じようには見られない。踏みしめるたび軋む廊下や、浅すぎる階段を降りていきながら「テメェのそのシャツ、袖んとこ刺青みてェに見えんぞ。よく半袖からちょろっと覗いたりする系の」と言われて振り返る坂田の目や、校舎を出たときの今日の終わりと明日への焦燥、あの頃にあって、あの頃になかったものが入り混じる夏のなかで、互いを見る眼差しだけが、ずっと変わらなかった。
「さっき一瞬、かけ算の七の段でとまった」
「……お前、また卒業できねェんじゃねえか」
「いや、七の段って鬼門じゃね?4×7はすぐでても7×4になると迷うとこある」
「ねーよポンコツ」
 バカな会話が歩く夜道で、ここ何週間か、ずっと置きっぱなしにされた車のボンネットに、ぎらっと光るものがあった。それがねこの目だとわかった土方がなんとなく足をとめたのに坂田もつられて立ちどまったが、特に手を伸ばすことも鳴き声を真似て誘いだすこともなく、その距離でただ見つめた。
 こうしてふいにおりてくる沈黙は、坂田とのあいだにある見えない空気の層をつきやぶって、無性にふれたくなる。昔、あの夜、たとえ一時でもドブを掻きだしてくれたこの手は、土方の命をずっと掴んでくれていた。楽になることを、決してゆるさなかった。
 夜に反射する目と見つめ合うこと数秒、そのねこが、ぴょんっと後ろ脚で飛び降りた。
 直後、ボンネットに別の光が跳ねたかと思えば、こんっ、こんっ、と間を置いて鳴る鉄琴のようなそれが、次の瞬間には激しく打ちつけるドラムロールになった。
 車のサイドミラーにかかった蜘蛛の巣が、透明の雫でたわむ。
「降るなんて言ってたか?」
「一時的だろ。今向こうで雷、光った」
 どうせこれだけ濡れたら一緒だと、高校に戻って雨宿りするよりもこのまま一気に走り抜けることを選んだふたりは同時に駆け出した。踏みつけて跳ねる飛沫、上下にぶれて霞む視界、幾重にも迫ってくる外灯の光、それらをまばたきで弾いていく睫毛から、しずくが散っていく。
 ぬるい夏の雨に洗われていく身体が、染みる傷なんてないはずなのに、ひりついて息を切らす。それは腹の底を震わし、どこか苦しい笑いになった。
 色々なものを濡らすだけ濡らして、次第に雨は途切れだす。
 足のうらをぬぐう坂田が割れた窓ガラスに銀色で映りこんでいた。
 投げて寄越された雑巾で、同じように片足ずつぬぐう。部屋に入るときはいつも、坂田の目が誰かを探すように彷徨うのを、土方は知っている。シャツを脱ぎ捨てた坂田は、「お前も脱げ」と言って土方の服を受けとると、それをハンガーにかけてフックに吊るす。うしろから伸びた土方の手が、坂田のちぎれた耳に、一瞬だけ触れた。坂田は何も言わずに、触れたか触れてないかわからないほどの微かなその感触に手をやって、そこに土方がいることをたしかめるように振り返った。互いが互いを映すその瞳がゆれて、そこにこめられたものが、刹那、繋がる。土方が短く、息を継ぐ音。
「……乾くまで、いていいか」
 手首に濡れた感触がふれて、こんなもの。一瞬で乾いちまうぞと坂田は笑った。

2016.08.22/乾くまで