4、肉
「いつか〜君とフ〜ウウ〜って曲。わかんね?」
「神田川?」
「ちげえよ、♪もう若〜くないいさ〜ァ〜、だって」
「さっきと違うじゃねえか」
「なんでわかんねーんだよ、ぜってえ知ってっから。超名曲だから」
夢のなかで鳴っていたという歌の題名が思いだせなくてモヤモヤするという坂田の話は世界史の教室から続いていた(今日見たのは一九五九年公開のベン・ハーだった)。ここのところ坂田の目の下の半月は生半可な睡眠ではとれないほど酷くなっていて、時々まばたきの狭間に痙攣するまぶたが何かを訴えるようにぴくぴく跳ねる。その要因の何分の一かを担っている土方は、ダンボールから取りだした商品の部品をひとつずつテーブルに置いていく坂田の痙攣するまぶたを見た。
「今日はこれ。アタッチメントはソフトかハード。両方試してチェック項目埋めろ。亀頭のやつもあるがそれはどっちでもいい。欲しいなら置いとくけど」
いつもの軽い説明で土方の目つきを険しくさせた後、坂田はプレハブの窓に手をかけた。夜風がカーテンのすそを膨らませる窓を通して、坂田の目が土方を見る。そのとき坂田のちぎれた耳を映していた土方はそこから剥がした目で窓から出て行く男の裸足を辿り、そのかかとのしわに見えた赤い肉に違和感を覚えた。坂田の履くサンダルに、かかとはない。
それからも先ほどの坂田のへたくそな鼻歌が、土方の中を支配している。
何かはわからぬが確かに自分はそれを知っていると思い、記憶を探っているうち、土方のなかで鳴りつづけるムーンリバーが霞んでいき、いつもよりも楽に体内に挿入できた。それでも馴染むのを待っているあいだの腸壁の動きは吐き気そのもので、脂汗のにじむひたいを、タオルケットにプリントされたサメに押しつける。酸っぱいものが泡になってこみあげる口腔に空気を取り入れ、うしろに回した腕をよじるようにしてスイッチを押しあげた土方はその瞬間、声にならない声を跳ねさす。
「ぐっ…ん゛ううぅう……っ」
その声が耳の穴に濡れて響くのを感じながら坂田はプレハブの外、足元に散らばるものに目を凝らしていた。闇に紛れているそれらは最初なにかの骨に見えたが、すぐにただの吸殻だとわかった。異常な数の吸殻がたんまりとプレハブの窓に沿って散らばっている。しゃがみこんで拾いあげたそれを間近で映した坂田の耳には、なにかの拷問にでもあっているかのような土方の声が己の心音と一緒になって渦巻いていた。毛穴という毛穴が目にみえない何かに塞がれている気がする。それに抗って噴きこぼれる尋常じゃない汗の量に、坂田の意識は混濁していった。
「い゛っ…んぁ、は、ぁ……っ」
ぐじゃりと握り潰した煙草を手のひらから払い落として、無意識にちぎれた耳をつまんだ坂田はゆらり立ちあがる。閉めて間もない窓を音もなく滑らせ、その次の網戸にも手をかけたところで親指ほどに破れた穴から土方を見た。脱ぎ捨てたサンダルが重なって落ちる。スタンドの灯りがあるはずなのに坂田の目は暗かった。長いこと暗がりに目を凝らしていたから逆に光がだめになっていた。体内に取りこんだものを自身の腕で蠢かす土方の首から上が、真っ黒に塗り潰されている。
距離を詰めた坂田は、土方の穴を見おろした。
異物で塞がれた淵は抗うように息づいていて、反った腰の、濡れそぼる窪みに指先を伸ばした坂田は、長いこと己の中で堰きとめていた何かが、ごぽっと泡を噴くのを感じる。触れたら戻れないとわかっていても、これ以上この男から噴きこぼれるドブに耐えることはできない。
肌と肌がひっついて吸いつく生々しい感触がした。
「っァ、な……?」
跳ねあがる腰にさらに吸いつく坂田の掌の熱に声をあげ、やけに鈍い動きでうしろへ首をよじった土方の目尻から、つう、と伝い落ちていくもの。それを目にした坂田は、何に対してかはわからぬ形容しがたい憤りで力をこめた指の痕が土方についただろうと考えながら、もう片方の手で男の体内から続くスイッチを握った。そこでようやく坂田の存在を認識できた土方が、「…んで、いる……っ!な、にしてんだテメェ……っ!!」と血を噴く声で暴れだす。
「そりゃいるだろ。ここ俺の家」
その腰を、このあとの意図を含めた手つきで撫でさすることで黙らせた坂田は、スイッチを通して伝わる小刻みな振動をとめることなく激しく揺すった。
「ん゛ああ……っ!!」
のけぞる身体に坂田は覆いかぶさり、その耳の穴に直接息を吹きこむ。その土方から飛んできた拳はなんの冗談かと思うほどよわかった。腕をあげたことで体勢を崩した土方に、坂田の重みが沈んで床が軋む。坂田の熱から逃れようとすればするほど弱い振動に中をさすられて、嘔吐く土方の口から胃液が垂れた。痛み以外のものを拾いはじめた途端に胃酸がこみあげる土方は、絶頂の際には必ず吐いた。抗えない性欲に晒されるたび、精液と吐瀉物を同時に吐きだすのが土方にとっての自慰だった。
坂田の汗ばんだ手のひらが握るそれは土方の体内に繋がっていて、こんなもので自分の穴をひろげるなんて狂っていやがると坂田は無いツバを飲みこむ。坂田が毎日配達しにいくどこかのだれかは皆、栄養失調の子どものような目をしていた。何かが圧倒的に足りていないのに何が足りていないのかわかっていない目。土方が笑ったあの夜も、これと同じ目をしていた。
サメの顔にかかった吐瀉物に混じる固形物を坂田は見た。
「あァ、そういや今日のパンはレーズンだったな」
「ッオェ…っ…、て、めェ殺…すッ」
「殺せよ。生殺しよりかはずっといい」
……お前ならわかんだろ?
「生かしもせず殺しもせず宙ぶらりんな状態で曝されるってのが、どれだけのモンか」
耳の穴に入りこんでくる坂田の肉声は、声というより、手に近かった。
土方は、まるで直接、内臓を掴まれたかの如く掌握される気がした。
冷たいだけだった内臓の振動がいつのまにか熱をもった骨太の指に変わり、かき回されている。床に落とされたバイブの濡れた先端がうねるそばで坂田と密着している背中から腰にかけてが燃えるように熱い。またもこみあげる胃液に口を塞ぎたい土方は、坂田の手の皮に爪を食い込ませるしかなかった。離せ、吐く、吐くから、と懇願するよりも先にまたサメを汚した。吐くものが残っていない胃から出るそれは色のついた唾液に近い。その体液を見おろしながら坂田は土方の中を探りつづけ、やがて中指を折り曲げたところに触れたクルミ大のそれが正常よりも膨れていることを知る。そこを左右に擦りあげると、もう片方の手が土方の爪によって掻き毟られ、坂田の腕には幾筋もの血の線が走った。
ジッパーのさげられるその音にまばたきをとめた土方は必死で舌を回す。
「ま、……待て、俺は」
俺は?
俺はなんだ。なんだ?なんでこんなことをはじめた。必要だったから。なんで必要。わからねェ。俺には必要だった。坂田。坂田銀時。夜の教室にお前を見つけたときからお前の人生に割りこみたくて仕方なかった。なんでだ。わからねェ。どこでもいい。どこでもいいから、ただ進みたかった。
あてがわれた肉の記憶に土方がまた嘔吐しかけたとき、
「……挿入る」
と糸を垂らすような声音で耳穴に吹きこまれる。その瞬間、食道はエレベーターとなって胃液を上下させた。押し拡げられて飲みこむ動きにたまらなくなった土方の口から、わけのわからぬ罵倒が飛び出た。それはあの頃、たまに口喧嘩をしたときの痛くも痒くもない類のものに過ぎなかったが、坂田の歯の隙間からは荒々しい息があふれだす。ゆっくりと長い時をかけて奥まで進められ、やがて尻の皮にざりっと擦れた感触は昔、偶然ふれたことのある銀髪を土方に思わせた。
土方、と呼ばれて息が吸えなくなる。
ひきつれた声で腰を震わせた土方は、奥深く、粘膜を擦ってくる坂田の動きが性急ではなく緩やかなのが逆に痛かった。たとえ一時でも十代を共有した男に、こんなふうに触れられていることが何より痛かった。吐瀉物でも精液でもない、別の熱い何かを吐きだしてしまいそうで必死に声を噛み殺した。揺すられるたびに飛び散る汗が、笑いたくなる痛さで、あたりを湿らせていく。
「…っは、う…んあ、あ、っあぁ」
抜き挿しされるごとに過去と現在もごっちゃになって抜き挿しされる。いけそうか、という声に、土方は首を振りつづけた。どこにもいけない日々を憎んできたのに、このままどこかにいかされそうな今が痛い。その痛みにすがるように土方が、坂田の名を呼ぼうとして喉を震わせる。
そのときふいに、ひとすじの生温かいものが頬にかかった。
血?
と思って薄っすらまぶたをあげた土方の黒髪が煽られる。
見られている。
と思うよりも早く、背筋に鳥肌が走った。暗がりでも目が合ったと確信できるほどの殺気。急速に心臓が膨らみ、ぱあんと破裂、
したような気がしたが錯覚だった。いつのまにか窓があいている。部屋にあがってきた第三の男の吐きだす煙が、土方を包む。頬にまた生温かいものがかかった。土方が血と思ったそれはその男が空気を動かす風であり、男の気配そのものでもあった。この気配を、土方は知っている。
時折、坂田からも感じる、この渇いた影は。
野良猫にでも出くわしたかのような目つきで首を傾けたその男は、そこでライターを擦った。いつのまにか眼球が焦げつきそうな距離だった。土方はまばたきをしようとして失敗した。そいつの顔に走る二本の線が眼帯の紐だと知れたとき、首の骨を折る勢いで顔を伏せた土方は、冷水をぶっかけられたかのごとく急速に我に返る。ところが早く抜いてくれと一心に唱えても坂田は離してくれなかった。それどころかますます腰をもつ手に力をこめられ、爪の痕が残るほど食いこんでくるその痛みに土方は声がでる。
なにやってる。
なんでやめねェんだ。
理解が追いつかない状況の中、土方は床に転がる灰皿を見た。砂時計をモチーフにしたそれは初めて見たときから違和感だった。坂田以外の匂いを、いつもこの部屋に感じていた。
避けようが絡めとられる。
これほど痛い部分を的確にえぐってくる視線は、他に間違えようがない。
あの頃いつも、坂田の隣にいた男。
「銀時。そいつァ逆に拷問だ」
土方を挟んで対峙する空気が、指一本動かすことも許されない殺伐としたものになる。内臓が破れて骨が突き出てくるかと思うほど何かが暴れまわっているのに土方は声すらでなくなった。
コイツは知っている。
あの頃、俺が坂田に向けていた、人に言えない劣情を。
知っている。
「そんな甘ェ痛みで一体どこに行ける」
その声が土方を刺し貫いた。
みはった眼に男が映りこむや否や、視界いっぱいに煙草の火が迫る。痛みに備える余裕もないほど迅速に突き出されたそれが土方の肩にじゅっと押しつけられた。
「ぐっ…ぁ」
皮膚が焼ける匂いがした。あげそうになった声を潰す勢いで噛み千切った唇から血が滴る。それと同時に射精にも震えた土方は、サメの口に混じりこむ血と白濁とを瞳の奥で歪ませた。中を擦っていたものがずるりと抜けていく感触に、また震える。肩に押しつけられていたタバコから男が手をひいたことで、あっけなくそれは落ちていく。その火は完全に消えていた。
身体を支えている土方の手が、男の影に敷かれて拳にかたちを変える。
刹那、その土方の拳がひゅっと風を切った。
ひとつの凶器の塊となって眼前にある脛に向かっていったそれはそこに当たることなく空振った。それにも関わらず男の身体はふっとんだ。半開きの窓にぶつかって鞭打ちになった男の片目は歪んだようで笑っているようにも見える。睫毛をあげた土方の目に、血を滴らせた別の拳が映しだされる。
坂田だった。
土方が見たことのないゾっとするような眼の光で坂田は、たった今殴り飛ばした男のことを見ていた。銀髪が、血の風にゆれる。それを見あげる土方は、坂田とのあいだにある空気の層が、目に見える気がした。さっきまで繋がっていた奥のほうに鈍い痛みが走る。
その痛みを口角をあげることで押し殺した土方は、向こうへ踏みだしかけた坂田の足の前にすっと腕をだした。それにひっかかってつんのめった坂田が咄嗟に床についた手で身体を支える前に、もてうる力を腹筋にこめて土方は立ちあがる。背後から伸ばした腕で坂田の身体をひっくりかえし、仰向けに跳ねたその顔を上から殴った。鼻にどろりと広がる鉄のにおいと、あとからきた背骨を走る痛みに、坂田は息を詰めた。目の前でうねるバイブを見る。壊れた玩具のように震え続けるそれは、しかしそれが正常なのだった。そこからゆっくりともちあがる坂田の目に、ゾっとするような眼の光で見おろしてくる土方の影が落ちた。垂れてきた前髪にすぐ隠されて見えなくなった土方の光に、坂田はツバを飲む。
離れていく土方の体温に、坂田は手を伸ばさなかった。
土方が闇に溶けるように出ていった後、それと入れ替わりに近づいてきた気配に向かって、
「……高杉。わざわざ殺されに帰ってきたのか」
と坂田は吐きだす。仰向けで仰いでいた天井が高杉に成り代わり、薄闇のなかで何百日ぶりかに目があった。窓硝子が割れていた。何度飲み下してもわきあがる血の唾を同時にぺっと吐く。
「釘バット、用意しとくんだった」
「くだらねェ下ネタだな」
翌日、朝が眩しく眼にあふれるなかで、どうせ全滅だろうと諦めていた梅干は、靴底に踏み潰されることも煙草の灰にやられることもなくゴザの上に在った。梅のそばには抜け落ちた髪の毛を連想させるシソも在った。梅酢はガラス瓶のなかで血液に見えた。それらを取り囲むように昨夜、骨に見えた吸殻が幾つも落ちているのを見て、梅どころか下手したら家ごと燃やされるとこだったと寒気立つ。
「ここんとこの柱、若干、焦げてんぞ……」
「投げたら当たった」
また殴りたい心情を抑えて坂田が桟に凭れかかった高杉を見ると、夏の陽に射された男の顔があちこち赤く腫れて干した梅よりも酷いことになっていた。自分を見る高杉の目を見て、こちらも似たようなものなんだろうと坂田は思う。俺たちはいつもこうだとデコボコに腫れた高杉の顔の皮膚を見ながら、
「この段差でようやく同じ目線だな」
とこぼした坂田の顔はさらに凸凹になった。朝飯の野菜ジュースは染みる凶器だった。
三日三晩干した梅をさらに二日冷やしてから瓶に詰め、坂田は約束の時刻に合わせて陽射しのなかを歩いている。胸に抱えたガラス瓶は熱をもち、梅酢の赤は陽を反射して眼に痛く、垂れ落ちてくる汗はいちいち傷に染みて鬱陶しい。よっぽど車をだせばよかったと後悔したが、あの入り組んだ細道に無駄な神経を使うよりかは歩いた方が早いのでひたすら無心に歩く。途中の信号機が鳴らすカッコーの声が狂ったように繰り返し早く渡れと急かしてくる。うるせえ、と脳ミソが喋った。
「おお……、どうしたその顔。濡れたアンパンマンみたいになってるけど」
「うるせえジャムマダおじさん。これ餞別」
「ジャムマダおじさんって何?!」
元々物の少なかった六畳間がさらにからっぽに見えるそこに腰をおろした坂田は、梅干の瓶を覗きこんでいる長谷川のこけた頬を見た。それから畳の角の色褪せたダンボールと、その端から剥がれかかっているガムテープに目を移した坂田はふいに何か忘れていることがある気がする。
忘れたり、思い出したりを繰り返して過ぎていく日々の中で、特にこの夏は、随分昔に流した血がまだ乾いていなかったとばかりに濡れた記憶ばかりが呼び起こされる。
ガソリンならあるぞと言って長谷川が芋焼酎の瓶を、畳に置いた。それを欠けた夫婦茶碗にそそぎながら「いいかげんもう捨てなきゃな」と笑う長谷川に、それ言うの何回目だよと嘆息した坂田は男の手から酒瓶を掻っ攫い、「はい旦那さん。どうぞ」と、妻より少しだけ大きい夫の入れ物の方に酌をしてやった。なんか萎えるな……と言いながらもなみなみと注がれて弾ける無色透明を見おろす長谷川の、グラサン越しの目が笑う。それを見ながら啜った焼酎はぬるかった。よりを戻すにしても独りを貫くにしても長谷川とこうして気安く飲めるのは今日限りかもしれないという予感が坂田にはあった。
くだを巻きはじめた長谷川のなにげない自虐が、坂田の中に澱みで残る。
「俺が酔いつぶれて吐いてるとさァ、奥さんがよく背中をさすってくれたんだけど、それが無性にしんどくてなァ。背中を行き来する手の温度がぬくければぬくいほど、俺は逃げたくなったよ。この手がなければ楽なのに、って思っちまったよ。最低だよなァ……」
五日ぶりの教室で坂田と土方は目と目を合わして一秒、すぐにそれをほどいた。そのあと黒板を見据えて動かない土方の瞳を一瞬だけ遮るように、拳の皮がめくれて肉が剥きだしの坂田の手が横切っていった。席に着いた坂田はそこでマスクをずりあげ、あとはこの青痣がなくなるだけだと夜に塗り潰された窓を見る。ところが思ったよりもなかなか青痣は消えず、マスクが外せないまま何日も蒸し暑い教室に耐えなければならなくなった。傷の治らぬうちから酒をひっかけていたせいで舌は爛れ、喉も燃えるように痛かったので、風邪が長引いていることにして体育は見学した。ひとりあぶれた土方が離れたところでラケットに球を跳ねさしている音が、坂田の耳の穴をたえず湿らした。
坂田の様子が可笑しいことに気がついたのは英語の授業が半分を過ぎた頃で、土方はそのときいつものかるい吐き気と戦っていた。それは昼間、路上に停めてあった車のサイドミラーに蜘蛛の巣がかかっているのを見たときから延々と逆流してくる。吐くところまではいけない、できそこないの吐き気だった。その土方の目に、自分と同じくマスク越しに口元を覆っている坂田の手が映しだされ、肌色が透けるほどにぐっしょりとはりついたシャツが映しだされ、ノートに転がしたままの鉛筆が映しだされる。
坂田が痰を絡めた咳き込み方で体育館の裏口から出て行った音にも、土方は振り返ることなくラケットに球を跳ねさしていた。上下に動かしている腕も、ピンポン球を追っているはずの目も、今日の晩飯は何にするかと考えている意識も、すべてが坂田に向かって走りだそうとする。押さえつけても、抑えつけても、底のほうから噴きだしてくるこいつに土方はこれ以上為す術がないと呻き、どうせならすべてぶちまけて、このぬるぬると化膿しまくった肉をどうにかして乾かしたいと思った。皮膚をしたたる汗の粒のひとつひとつが血のように熱いと考えながら裏口の方に歩いていく土方は、高杉の言葉を思いだしていた。
そんな甘ェ痛みで一体どこに行ける
外に出た刹那、肌に吹きつける風の生ぬるさがそのまま坂田の体温に思えて、いよいよ末期だと土方は口角をあげる。吐き気はおさまっているのに、別の何かが眼にこみあげてきそうで苦しかった。
出てすぐの段差に、坂田は居た。
瞬時に風に乾かされた眼で、綿毛のようにひろがる銀髪を見おろす。
一瞬、体育館からの光が伸びたことで顔をあげた坂田の鼻からツウ、と赤い血が垂れ落ちた。土方を映す眼は、あの頃からなにひとつ変わらない。靴を履き替えている土方に、脱いだシャツを絞りながら向けた目と何ひとつ違わない。土方は、拳を握りしめた。乾いた舌を唾液でもちあげる。
今吐き出さないと、たぶん一生吐き続けることになる。
「テメェの顔は二度と見たくねェ」
坂田の指にひっかけられたマスクが風ではためいた。
そこについた血がまだ乾ききらずにどろりと光るのを見て、男の顔を酷くしている青痣を見て、土方はそう吐き出さずにはいられなかった。そうだ、出来ることなら二度と見たくなかった。坂田は坂田で、そんなことを吐きだした直後にこちらの身体を押しのけて隣に腰落とす土方に、憔悴の目を向けた。
「……おい。言ってることと矛盾、」
ふいにその土方の眼に見返され、坂田は血の混じるツバを喉にひっかける。
「その鼻血。高杉か」
「あ?人をぶん殴っといて忘れたってか。お前だよ、お前。ほじくってたら、かさぶたとれた」
「殴りたくなるようなことしかしねェテメェが悪い」
「それはこっちのセリ」
フ、はその呼吸ごと土方に吸いこまれた。
唇にふれた柔らかい熱に目をみはった坂田は、見えないほどの近さにある睫毛の震えに息をとめた。鼻からのとまらぬ血がそこに溜まり、互いの唇が赤く染まるのを鉄の味で感じた。
は、と漏れだす生ぬるい息が「血なまぐせェ」という言葉で鼻にかかる。いまだドブの中を這いずりまわっている土方の目が、至近距離で波打った。
「死にたい朝にお前がいたせいで、俺はずっと滅茶苦茶だ」
それだけ吐きだしてまた近づいてくる血に濡れた唇に、坂田は息をのむ。
浮かした指先で近くの手首にふれれば、こちらの耳を熱い手が這う。土方の指がちぎれた断面をなぞるたび、あの日流した血が返ってくるかのように流れこんでくる土方の唾液を坂田は飲み下した。そうして心臓から送りだされる血液が、土方の手首をにぎる指先にまで通っていくのが、わかる。