3、

 どれだけ気まずくても毎日顔を合わせなければならないのが学校だった。そんなことをこの歳になって痛感する夜の教室は、まともになれなかった者たちの巣窟だ。
 それでもここに集まる。
 夜に集まる。
 坂田は、そこに偶然にも居合わせた土方と、関わるつもりなんてなかった。それが二週間も経たずしておおいに歪み、もはや昔の同級生などという範疇では済まなくなってきた男のことを、坂田は夜の教室に見る。黒板の筆跡を写す土方のペンの動きを坂田は見る。
 何百日かぶりに汚れた灰皿を洗ったのが今朝だ。
 一時間と言いながら夜が明けてから戻った坂田は、そこに土方の靴がないことに心底楽になり、午前中に伝票を切る予定をやめてでも横たわりたいと膝をついた。掴みよせたクッションに顔を埋めるまであともう少しというところで、その灰皿が目に入る。先程と変わらない位置に置かれた灰皿。砂時計をかたどったその灰皿は、掃除機の紙パックかというほどの汚れ方をしており、それはたった一晩でそれだけの灰を溜めた土方が、ここにいたという証に違いなかった。その灰皿の下から一枚の紙を抜きとって見おろす坂田の目に、また十代の面影が走る。あのころ教室の机から見あげた、黒板の筆跡。あれと同じ右肩上がりの濃い字面が、坂田の目に迫ってくる。そこに書き連ねてあるのは方程式でも英単語でもなく、卑猥な回答文である。坂田はぎっちりと詰まった砂時計の灰皿を見た。長すぎた今日一日を呪いたい。
「クレオパトラはフェラチオがうまかったって話」
 いつもの味気ないパンが配られた直後に背後ではじまった雑談は、どれだけひそやかにしているつもりでも教室中に筒抜けだった。話題に事欠けばシモの話で場を繋ごうとする十代の空虚なる暇潰しは、先刻の授業から来ている。世界史の教師は夜によって気分にムラがあり、何回かに一回は映画を流すだけの四十五分になる。今日は一九六三年公開のクレオパトラだった。
 メロンパンは、とにかく食べるそばからぼろぼろと屑がこぼれ落ちていく。
「クレオパトラの肌が美しいのは、大量の精液飲んでたからだって。精液にはタンパク質とかオキシトシン?とかそういうのが含まれてて、飲むと幸福感をもたらして美容効果がとかなんとか、良薬口に苦しっていうのはもともとそっからはじまってるって話。あ〜口んなかパッサパサ。やるわこれ」
 歯型のついたストローにジュースの雫が膨らんでいた。
 坂田がそこから最後の数滴を吸いこんでいると影が落ち、「昨日の、アレでよかったか」と降ってくる土方の声と、背後のバカ笑いが重なった。坂田は土方を見た。「小2の読書感想文よりかはな」


 土方が来る週に三回、坂田は時間を潰さねばならなくなった。それはどことなく、放課後に暇を持て余しているような気分にさせられる。夜の街をただ闇雲に徘徊しながら、眠らない店の安酒で粘りながら、女の髪の毛を指に絡ませながら、坂田は土方が部屋を使っている間の時を潰す。坂田が帰る頃には土方の姿はなく、灰の詰まった砂時計と、今日の所感が記された薄い紙がある。それを音読してから横たわったそこには土方の熱がまだ残っていて、坂田が安眠できるはずもなかった。
 その日、高校からの帰り路を行く空気はねっとりと絡みつく暑さで、夜だというのに蝉が狂ったように鳴いていた。さっき自販機で買ったばかりのペットボトルはうなじの熱に吸いとられて既にぬるく、そこに押し当ててる意味がなくなった。土方の顔色がすこぶる悪い。今日はやめとく?という坂田の気遣いは沈黙に溶かされた。異常なまでに濡れた土方の首筋の隆起にふいに手を伸ばしかけた坂田の顎からも汗が滴り落ちる。伸ばしかけたと思った手は、ペットボトルの首を握ったまま気だるく垂れていた。
「この時間に蝉て」
「昼と夜、間違えてるんじゃないですか」
「うるっせ〜〜〜〜」
 赤提灯から出てきた三人組のそんな会話が、すぐそばの裏路地を抜けていった。
 土方の目がすぐそばで揺れているような錯覚を覚える。
 それは土方を部屋に残し、ひとりで時間を潰す頃になっても坂田のなかに貼りついたままだった。徘徊の途中、サンダルの底が踏みかけた断末魔の蝉の、その鳴き声がジタバタと脳味噌を暴れまわる。どこへ行こう。と、坂田は考える。しかしもう、行くところがなかった。
 そうしていつもよりずっと早くに戻ってきた坂田の目に映る。
 灯りが漏れているプレハブの窓。
 すりガラスを通して見えるのはぼやけた色だけだったが、坂田にはこの向こう側の光景が痛いぐらいに見透かせる。どこまでも押し殺したものなのに蝉の断末魔よりも痛く聞こえる土方の声は、微かに唸る電動音に混じって何かのスプラッタ映画みたいだった。そこに背中でよりかかった坂田は、うだる脳味噌のなかで数を数えはじめる。子どもが湯船に浸かるあいだにそうするように、千までと決めて己の内で数えはじめた坂田の鼓膜を震わす土方のそれはひたすらに狂っていた。
 千秒、数え終わった。
 血走った目で煙草を吸っていた土方は、気配を滲ますことなく窓から入ってきた坂田を見て、
「なんでこの家、玄関ねェんだ」
 と、そんなことを口走ると同時、足元にあるナイロン袋をどうにかしようとして失敗していた。吐瀉物の匂いをすぐに消せるわけもなく、早々に開き直った土方は腰を庇うように立ちあがり、たぷたぷ揺れるその袋をもって便所に流しに行く。坂田は床に転がる使用済のバイブに横目を投げた。戻ってきた土方に、「なァ、腐りかけの野菜で天ぷら揚げるけどお前食う」と尋ねた坂田の目も同じくらい血走っている。
「ん。擦っといて」
 おろし金に大根を添えて渡された土方は言われたとおりに五センチ幅のそれを擦りはじめた。二度目の同級生になってからほとんど毎日のように顔を合わしているのに時々、目の前にいる男が誰なのかわからなくなる。徐々に手中から大根がすり減っていくのを感じながら土方は、平常心を保つためにあえて軽薄でいた。そうして浅いところを漂っているうち、衣にくぐらせた野菜を油に投じはじめた坂田のいる方から、雨音に似た音が跳ねてくる。指まで削る勢いで大根を擦っていた土方は、その音が耳の穴をとおって内臓にまで働きかけてくると思った。吐いた直後の胃が、空っぽであることを主張して伸縮する。夏の大根は苦い。これ以上おろせなくなった大根のかけらをどうしようかと考えて結局食べる。
「おい腐りかけってどういうことだ」
 今さらそこに突っ込むのか、というような土方のそれに手をとめた坂田は空いている方の手で汗をぬぐう。そのとき菜箸のあいだから滑り落ちたレンコンで油が跳ね、かかとを半歩うしろへ引いた。その坂田が振り返ることなくツバを吐くように呟く。
「今、話しかけんな」
 そう吐きだした坂田の声の響きには僅かな苛立ちが含まれていた。普段、乾ききっているように見える坂田の、土方を瞳に映すたびに増していくそれが油の跳ねる音に変わる。それに振り向いた土方は、坂田とそのそばの水にさらしたレンコンやサツマイモの浮かぶボウルを見た。時々、土方には、わけのわからない衝動がこみあげる。おろし金で指を擦りたくなるような、そういうわけのわからない衝動がこみあげる。こういう、なんでもない日常に溶けこんでいるときに限って。
「揚げもんやるときは穏やかでいねェと大惨事なんだよ」
 妙に実感のこもった声で言うものだから、女絡みかと土方は思い、「その手首の火傷か」と瓶ビールの栓を抜く。それには答えない坂田が突きだしてくるコップにそそぎいれながら、こいつは俺が話しかけただけで穏やかでいられなくなるのかと考えた。そのせいで泡ばかりのビールになった。坂田が舌打ちする。大根おろしを溶かした天つゆで食べる天ぷらは腐りかけだからか、どれもこれもべちゃついていた。
 そのあと油のにおいと沸騰するやかんの熱に窒息しそうな部屋で、英語の問題を出し合った。それはひどく現実的のような時間に思えて、夢よりも色がなかった。蒸気を吹くやかんも、網戸越しの夜空も、風ではためく単語帳も、さっき食べた天ぷらのべちゃついた味も、時々ふいに見てくる坂田の乾いた目も、いつかは曖昧にしか思いだせなくなる。土方は、じりじりと燃えゆく煙草の灰を砂時計に落とした。
「Hope for the best and prepare for the worst」
「あー、最大の希望は最悪を…プリペアってなんだ、つくる?」
「この場合は『備える』。最善を望み、最悪に備えよ」
「じゃあこれ。A drowing man will catch at a straw」
「溺れる者は藁をも掴む」



 コピー機から吐きだされる紙がふわっとコンビニの光に透けるのに、あ、今なら寝れる、と閉じかかる目蓋を坂田はかろうじて薄くするにとどめる。あと十枚、と坂田がたしかめる横で、パンを棚に並べていく店員のゆらす空気が汗のにおいになる。汗を乾かされた坂田の腕には鳥肌が立っていた。あと七枚。コピー機から吐きだされる紙がふわっと落ちるのを、坂田の疲れた眼が映しだす。先週末にこれを配達したアパートの玄関先で「これ書いてるの男?」と問われたことを思いだしている坂田は乾いて冷たい皮膚のうえから喉仏をおさえた。あと四枚。時々、空気を奪われたような感覚に陥る一瞬の呼吸のし辛さが坂田にはある。複写されつづける土方の筆跡が最後の一枚となり、坂田はつねっていた首の皮を離した。
 まだ他人の指に頁をめくられていないジャンプとコピーの束をレジ袋にひとまとめに突っ込んでコンビニを出た坂田に、サウナのように蒸した熱が絡みつく。何かを忘れているような気がしたが深くは考えることのないまま、それより今からなら三時間は寝れるなと薄目で歩く坂田の足音が、蝉時雨の中を行く。途中なにもないところでつんのめるぐらいには二日酔いが酷かった。
 ところが三時間どころか一時間足らずで物音に起こされた坂田は最初それをある男と錯覚して無意識に釘バットを探した。その手が空振りすること三回、そこでようやく釘バットなど持っていない現実に引き戻される。窓のほうからするそれは、この時期にしては激しすぎる風である。と思っていたら振動に合わせて女のあえぎ声がする。それを聞いて寝起き早々に破壊衝動がこみあげた坂田はもう一度タオルケットに突っ伏した。何度かそこにプリントされたサメ柄にヘドバンをかます。女のあえぎ声がますます膨らんだ。朝っぱらから他人のセックスを聞かされるこの苛立ちと虚無はなんだろう。時折ここを倉庫か何かと勘違いした輩がそういう目的で夜な夜なあらわれるが、さすがに朝から聞かされるのは初めてだった。サメから離した目で、埃の舞う光を見あげた坂田は、今からでも玄関をつくり、そこにでっかく表札をかかげてやると舌打った。欲しい欲しいとねだる上擦った声にさすがに我慢ならなくなった坂田は飛び起きて、窓の鍵をおろすと勢いよくそこをずらした。重なっていた男女に向かって「てめーら、よそでやれ!!」、そう叫ぼうと開きかけた坂田の口は、途中でつぐまれる。たくしあげられたブラウスから赤の下着をあらわにしている女の乱れた黒髪。そこから覗いた瞳が、坂田を映して僅かに正常を取り戻す。
「……銀ちゃん?」
 口紅をはみださせたその唇の持ち主は、土方の前任にあたる旧モニターの女だった。一度だけ寝たことのある坂田はフェラチオのうまい彼女の荒れた肌をじっと見る。


 窓際の定位置に坂田はいなかったが、目を凝らすとそこに空気の塊みたいなものが澱んでいるのがわかる。ここのところの土方は自分がいつ寝ていつ起きてどんな姿勢で仕事をしているのかも定かでなくなってきているという浮遊感のなかで、気づけばいつも夜にいる。まるでここを軸として毎日が回転しているかのように夜の教室の光にいる。
 ふいに机の中に滑らした指先が、くしゃくしゃのプリントにふれて乾いた音を立てた。ひっぱりだして見おろした先にある進路の紙は、昼間この机を使っているだろう十七才の気配を滲ませる。何度も消したらしい鉛筆線の残る、今は空白の紙を押し戻した土方は、物理の黒板に向き直った。
 体育であぶれた土方はそこからふけることにして、まといつく熱気をひき剥がすように裏口からでた。出てすぐの段差に浅く腰掛けただけで走る痛みにやや身体を浮かせた土方の目は険しい。そうして涼んでいるところへ、近づいてくる足音があった。険しく歪められた土方の目が、その見慣れたサンダルを映して翳る。もちあげた顎から滴る汗と、ひたいに貼りつく前髪が鬱陶しかった。
「よぉ、サボリか高校生」
「うるせぇ。それはテメェだろ」
 汚いサンダルで土方を押しのけて空いたスペースに腰を落とすやいなや坂田は痰を絡ませて咳き込む。それを横目で見ていると口腔がひどくぱさついてきて、土方はそこにまだライ麦パンのカスが残っている気がする。土方が舌で歯の隙間を探っているあいだに喉をととのえた坂田が、
「今日お前の原本コンビニに忘れてきちまった」
 という言葉をかすれさせたとき背後の体育館で笛の音が鳴った。まるで高校生だった。いいや今は高校生なんだった。そのろくでもない報告に言葉を失っていると「いや大丈夫だって。匿名のH君だし見られたところでそういうアレかって納得するだろ」とあくまで飄々とした坂田の手のひらが肩におかれる。そういうアレってなんだ、それのどこが大丈夫なんだとツバを吐きかけてやりたい鬱よりも勝る坂田の熱にふれられて、土方は己の中で一瞬なにかが噴き出すのを感じる。その手を払いのけようとしたら掴まれた。体育館から漏れて伸びる真昼みたいに黄色い光を、互いの影が敷いていた。
 闇に映える銀髪。
 剥きだしのちぎれた耳。
「お前アレ、どういう顔で書いてんの?」
 そこに吹きつけた風は逃れられない体温に似て、ぞっとするほど生温かかった。