2、唾
もう二度と見ることはないと思っていたあの銀髪が、窓からの風をうけて綿毛のようにひろがるのを目にして土方は今すぐここから出て行きたかった。粘つきだした口内にこみあげるツバを飲み下してからもう一度、ふたつ前の列、その窓側にいるのをたしかめる。なまぬるい夜風で掻き分けられた銀髪から覗いた耳には、ぱっくりとした裂け目があった。土方は、そいつの右手が回すペンの軌道を見る。くるっ、くるっ。数秒おきに回転するそれをじっと目に入れながら土方は、あれはかつて同級生だった坂田で間違いないと確信している。そのあいだに黒板の左半分が消されてしまった。書きかけの『独』という字にペン先を押し当てている土方のふせられた目に前髪がかかる。
なぜ夜が暗いというだけで、教室はこんなにも眩しいのだろう。
授業終わり、立ちあがった坂田が振り返るのと同時に机に突っ伏した土方は、いかにも貧乏臭いサンダルが近づいてくるのを腕のすきまから見ていた。それがすぐそばに迫る気配とともに、まぶたにあの頃の空気が集まるような気がして、土方はいよいよ訳がわからなくなった。
なんでここにいる?
次の日もその次の日も、当たり前に坂田は土方と同じ教室で高校の授業を受けていた。休憩時間のたびに出て行く坂田がすぐそばを通るから、土方は眉間に痕がつくまで机に突っ伏さねばならない。ささやかな休憩の間に飛び交う私語は、それらの声のトーンや内容を察するに圧倒的に若者が多かった。この教室で、土方と坂田だけが浮いている。話しかける者はだれもいない。
現国の授業があと五分で終わるという頃、板書を書き取っていた土方のシャープペンシルの芯がぼきりと折れる。土方のまつ毛がもちあがり、その黒い瞳に映しだされたのは坂田だった。あの頃、目に入るだけで気に食わなかった。土方の喉はからからに渇いていた。よりにもよって、こんな偶然があるのか。十年以上経ってから、かつての同級生とまた高校生をやるなんていうのは、土方には、海中でサメに遭遇するより低い確率に思える。
その日、坂田が教室を出て行ってから数秒後に机から顔をあげた土方は早足でそのあとを追いかけた。階段に差し掛かったときちょうど坂田がひとつ下の階に見える。しばらくそれぐらいの間隔を保ちながら土方は校門を出たあとも坂田を尾行しつづけ、ふたりぶんの足音が夜道を響かせる。その途中で煙草に火をつけた土方は、ふかく煙を吐きだしてから僅か二メートルほどまでに距離の縮まった男に向かって、
「坂田」
と呼んだ。それは本当に、海中で遭遇してしまったサメに話しかけている気分だった。
立ちどまった坂田が振り返るのを土方は待つ。その瞬間、脳味噌に浮いていたあらゆる言葉はすべて潰れ、文字通り真っ白になった。土方は、真っ白になってしまった。からからに渇いていた口のなかに今度は泡のような唾液がこみあげて、そこにむりやり煙草を突っ込んで深く吸いあげる。それは一秒にも満たなかった。一秒にも満たないうちに坂田はなにもなかったように歩きはじめた。「は?」、思わず口をあけた土方はあっというまにまた距離が広がった男の背中を呆然と見送りかけてから我に返る。ほとんど走るかたちでその距離を縮めた土方がもう一度「おい」と強めに呼びかけたところで坂田は立ちどまりすらしなかった。それに苛立ちを覚えた土方が、
「てめえ聞こえてんだろうが」
「坂田。坂田だろ?坂田銀時!」
と声をはりながら先の角を曲がった男のあとに続いたその瞬間、ぬっと伸びてきた手に胸倉をひきよせられ、土方の瞳の中で近くの外灯が二重にぶれた。
「うるっせェエ!!!んな連呼しなくても聞こえてるわ!!!!!」
急に間近に迫った顔と頬にかかった生温いツバに思考をとめた土方は、二重にぶれたものがじわじわとまたひとつに重なって、はっきりと坂田になるのに心臓を潰されるような気がする。
「テメェがシカトこくからだ。つーか、くせェ。ワキが」
坂田の胸を押し返してから再び煙草を咥えて距離をとる。それに舌打ちで返した坂田は自身のそこに鼻先を近づけながら「コンビニやそこらならともかく、あんなとこで昔の知り合いに出くわしたら互いに見なかったことにすんのが一番だろうが。アラサーのオッサン同士が若者の空間に耐えられなくなって、つるみはじめたと思われるだろ。空気読めや」と、あからさまに煙たそうな顔をした。
「つーかお前もそれでずっと机に突っ伏してたんじゃねえの」
それにゆらり瞳を曇らせて黙りこむ土方に対して、「窓に映ってんだよV字ハゲが」と坂田は言った。今でも重たい土方のその前髪を昔ふざけて切り落としてしまったことがあったなと坂田は思い、そんなつまらないことを思いだすのはひとえに目の前に土方がいるせいだと考えた。この後、連れ立って歩くことも何処かの飲み屋に立ち寄ることもなく土方と別れた坂田は、黙々と家路を歩きながら、これからの毎日を思うだけで胃液があがって口内が酸っぱくなるのを感じる。毎晩。アレと顔を合わせる。
噴きこぼれた汗が、坂田のシャツの色をぐっしょりと変えていく。
とっくに葬り去ったはずの何かが、ぼこぼこと盛りあがってくるのを感じる。それがツバとなってこみあげたのを坂田は道に吐きだした。
だれもいないプレハブに帰ってから、睡眠薬を多めに水道水で飲み干して、床に敷いたサメ柄のタオルケットに横たわった坂田は、久しぶりにあの悪夢にうなされた。
「高校ぐらいは出とくかって思ったんだよ」
声をだすことそのものが億劫そうな坂田のそれは、際限なく響くドリブル音に完全に負けていたわりに明瞭だった。床で反射するバスケットボールとそれに集まるシューズを追っているうち思考が鈍くなってきた土方は、坂田のそれを何かの台詞のようになぞる。
「仕事は」
「あー……デリバリー……」
「ピザ?」
肘の触れるか触れないかの距離で交わす会話はだらけきっていて溌剌さのかけらもなく、「つーかお前、混じってくれば。あれ」と、ほとんど寝る体勢の坂田がバスケ少年たちを指す。「てめえが行けよ。ビール腹」と投げやりに答える土方に、「ああ?俺の腹のどこがビールだよ。見ろやコレ。バキバキだから。縦にも横にもバキバキだから」、べろんとシャツをめくってみせた坂田は汗くさかった。その坂田に手首を掴まれて土方は内心ぎょっとする。むりやり触らされた坂田の腹の、べたついた感触が、指先に生々しく伝わってきて思わず拳になった。「ぐっ、おま、ビール出る」と呻いた坂田に、「毎日酒くせえんだよテメェ」とすぐにひっこめた指先の痙攣を土方はポケットに忍ばせる。
「この歳になって体育ってだけでもきちィのに、なんでテメーと卓球なんかしなきゃなんねーんだ?女子高生と付き合えるどころかテメーと球を打ち合ってるこの状況、なんかもう吐き気通り越して笑えてきたぞ。ってか、さっきからダンダンダンダンうるっせえガキども!!!」
「お前が一番うっせェよ」
シュートを外した現役の十七才がこちらに一瞥を投げたのに、土方はふと、いつもなら何をしている頃だろうと考えた。土方には夜が長すぎて、特に夏の蒸し暑い夜なんかは何をしていても駄目だった。エアコンでは到底冷やしきれない熱が身体の内から湧きあがり、皮膚ごと脱いでしまいたいような感覚によく襲われた。昔、脱いだシャツを坂田が体育館の外で絞っていたことを思いだす。乾いた地面の色が湿らされていくそのそばで、近藤や沖田と並んで靴を履き替えていた土方のその目の端では、坂田の剥きだしの肌色がちらついていた。あれに近い匂いが、今の坂田からもする。
昼間と夜とでは、体育館の様子がガラリと変わる。土方はもはや今立っている場所が何処なのかわからなくなって、ラケットを振った。すぐに跳ね返されたピンポン球が耳の横をかすめる。寝起きみたいな眼差しをおくってくる坂田が、スマッシュの体勢のまま、「ゲップでそう」と唸った。
体育のあと胃のなかの酒を吐いた坂田が教室に戻ると、そこに居るだれもが日替わりのパンに齧りついていた。たまに二言三言交わされる声以外はひたすらマズそうに咀嚼したパンを牛乳で流しこむ音だけがここにあった。それを見てなんとなく、ぎゅうぎゅうと絞られる雑巾を坂田は想像した。このまま荷物だけとって今日は帰ろうかという気分になったとき、他の者と同じようにパンを咀嚼する土方の姿をとらえて坂田の身体はどっと重くなる。ラリーの間中、土方の目が追いかけていたのはピンポン球などではなく、坂田の裂けた耳だった。そのたびに耳の穴に溜まった汗がぐちゅぐちゅ鳴った。
窓際の定位置へ向かう際に、パンの入った袋と牛乳を渡してくる土方を見おろす。
黙ってそれを受け取ってから席に着き、ひらいた袋から少しずつだして咀嚼していくと途中からタマゴの味になった。ひとつひとつの机がはっきりと映しだされているせいで、窓の向こうにもうひとつ教室があるかのように坂田の目には映る。ふいに、そこにいる土方と目が合った。
「おい。飯奢るから、どっか連れてけ」
「はい?」
本日の高校生パート終了と共にそそくさと帰ろうとしたところに、シャツの首根っこをひっぱられて坂田は勘弁してくれと思った。そんなわけのわからない誘い方をしてきた土方から感じるのは、だれかに殴りつけられる寸前の、ひゅっと空気を切り裂くアレに似ている。昔話をする気も殴られてやる気もない坂田は、「このへん、ぼったくりしかねえぞ」とそんな文句でかわしたが「別にいい」と即座に返してくる土方に「あとツケが溜まってて」という言い訳で、暗に行く気がない意をそこに含ませる。
「じゃあ、そのツケも払えば文句ねェな」
二の句を告げないでいる坂田を置いて歩きはじめた土方が、次の次の電柱の前で振り返り、「暑ィから早くしろ」と促してくる。そのとき耳たぶに手をやっていたのを土方に見られたと思い、坂田はなんともバツが悪かった。十五分ほど歩いて、路地にぽつぽつと見えはじめる看板のネオンに射された目でとなりの土方を見ると、そこだけぼやけて霞んだ。こんなことならコンビニの枝豆チップスでうちでひとりで飲んだほうがマシだと考えながら三週間ぶりに入る馴染みの店は、入る前から嫌な予感に溢れていた。それは案の定の的中で、「あれ銀さん、久しぶりじゃねえか」と呂律怪しく挨拶してきた長谷川と目が合った瞬間、坂田はよっぽど店を変えようかと思ったが、また土方と連れ立って歩き回るほうが苦痛だと思ってやめた。坂田のあとから暖簾をくぐってきた土方を見て、「お、今日は女じゃなくて男なの。しかもかなりの男前ときた」と虚ろな目で絡んでこようとする長谷川はどう見てもへべれけだった。
「なあ銀さんて。こないだの色っぽい姉ちゃん、アレどうなったの」
「どうもなってねえよ。ものの数回で辞めた」
あまりエアコンの効いていない熱の塊みたいな空気に我慢ならずにシャツを脱いで、黒のタンクトップ一枚になった坂田は、向かいに腰をおろした土方にビールでいいかと聞いた。なんでもいい。どこか投げやりに返す土方はまるで肉体と精神が分離しているみたいな目で坂田を見る。
ひどく、見覚えのある目。
「じゃあ大瓶とグラス二つ。に海鮮あんかけそば」と気だるげに注文したあと土方のほうに品書を投げ、冷たいおしぼりを広げて顔面に押し当てる。そこに飛び込んできた「ねぎマヨ焼餃子」という単語には鼻息で、おしぼりがふっと膨らんだ。昼休み土方の弁当箱を偶然見た高杉がその中身をみて真顔になっていたことを坂田は思いだした。またつまらぬことを思いだしてしまったと坂田は眼前の土方にあてつけのように舌打って、運ばれてきた大瓶の栓を抜くと傾けたグラスにビールを注いでいく。
あんかけそばを割り箸ですくいあげながら坂田が目線をあげれば、視界に満ちた煙たさからじわりと湿る。グラスの中身も餃子の皿も煙草の長さもすべて中途半端に置いた土方の腕が汗でテカるのを見てから、自分の腕も同じようにテカっているのを見おろし、動かした箸の先で貝柱やら海老やらイカやらを餡に絡ませる。夜間の高校に通いだしてから、土方の言うとおり少しばかり腹がでてきたかもしれないと考えつつグラスの三杯目を干した。昔に比べて、運動量が圧倒的に足りていない。土方が煙を吐くたび、着ている服に土方の匂いをつけられる気がして、坂田はげんなりと壁によりかかる。
「今日も女子高生と喋れなかった」
「試しに話しかけてみたらどうだ。そして現実を思い知れ」
「テメェに話しかけてねーんだよ。ちなみにだれかさんに貴重な夜を潰されてる現実なら今、嫌というほど感じてるがな。……あとさっきから気になってんだけどその食い方、何」
つまんだ頬をびろんとひっぱりながらふたつめの餃子を口に運んだ土方が、腫れてるから歯が当たんだよ、と不明瞭な滑舌で言うのに坂田はああそうと返すしかなかった。
「それこそ女子高生だったら俺がつねっててやろうかとか言えたものを」
「気持ち悪ィ」
「あァ?気持ち悪ィのはテメェ……大体、飯奢るからどっか連れてけ?って、なんで上から目線だよ。そもそもお前に奢られてんのが気持ち悪ィ。まさか鼻くそとか入れてねーよな?大丈夫だよな?」
「今、入れときゃよかったって後悔してるとこだ」
「オイそんなこと言っていいのか。今さら俺の財布あてにしたって遅ェからな」
「見るからにポンコツなテメェの一体なにをアテにするってんだ。割引券でも持ってんのか」
「はァ、ぶん殴りてェ……」
そこであんかけそばを啜るのをやめた坂田は箸を投げ、便所と言い置いてから若干痺れた足に力をこめて立ちあがる。体重がかかったテーブルがグラスのビールを波打たせたことで、泡のなくなったそこから今年はじめての夏を感じとった気がする。一気にあふれ弾けて、あとはぬるく気が抜けていく。あれだけ喉越しに弾けていたのが嘘のように。
便所に立った坂田は、電気も点けないまま狭い個室の中の一点を凝視する。また腹が震えるのを感じた。寝不足と疲労で神経が磨り減っているときには、ちょっとした情緒の変動がすべて笑いに変わる。はあ、と便器にしがみつくようにしゃがみこみ、そこにある暗い水面が鼻息で波紋になるのを見おろして坂田は、長丁場の麻雀並みに疲れた、と首を垂れた。
腹痛のふりで長く篭もったあと思考を正常に戻した坂田がそこに戻ると、何故かこちらのテーブルで飲んでいる長谷川が先ほどまで坂田のいた場所に居座り、必要以上に潜めた声でなにごとかを土方に吹きこんでいる。それを背後から蹴飛ばしてどかした坂田はさっきよりもぬくくなったそこに尻を落とし、今日も今日とてあらゆる厄をまとった長谷川から響きはじめたイビキに耳を閉じたい気分だった。ぽたぽた降ってくるグラスの底からの水滴が、あぐらをかく太股に染みこむのを、坂田は肘を突いて見おろす。その坂田を見る土方の目に、ひそかに薄暗い何かが沈殿していった。
会計の際に財布をひらいた土方が「ツケはいくらだ」と真面目に聞くせいで店の婆さんに殴られるはめになった坂田は、なんて厄日だと思う。このバカによわみでも握られてるのか。婆さんの問いかけに肯定とも否定ともとれる無言で返した土方は、結局今日の分の飲食代だけを支払うに留まった。釣銭を受けとめる土方の手のひらを、目だけを動かして見る。その親指に巻きつけられたバンドエイドのしわに、坂田は既視感をおぼえた。息が詰まって仕方がない。
「ドブくせェ」
このあたりは常に死体の腐ったような匂いが充満していて、それは海に近くなるほど鼻の粘膜を支配した。そんな鼻を摘まみたくなるような腐臭も暮らせば順応してしまう。ドブ臭いと吐きだしてから何本目かの煙草を食む土方に、またもや既視感に襲われた坂田はこのあたりだけ空気が粘ついていると感じた。飲みくだす唾液がいちいちひっかかり、目にみえない何らかの膜に覆われたかのように息が苦しい。互いの住まいを知らないのでどこまで連れ立って歩くのかわからない分、その精神は休まらなかった。土方の足音が後ろにはりつくものだから、それにひきずられるかのごとく坂田の足取りも狂ってきた。靴底にガムがひっついているかのように、粘着質な何かがどこまでもまとわりついてくる気がする。波がぶつかって弾ける音が近くなってきた。肌に吹きつける風にも腐臭が混じりはじめる。すこし先を歩く坂田との遠近感がふいに掴めなくなり、真下に逸らした土方の眼が、夜にこぼれ落ちていく灰を見る。
「テメェには借りがある」
そう一息に吐きだした土方の瞳の中で、風に飛ばされた灰が見る間に砂と化した。夜闇に痕をつけた残骸を、革靴の底で擦る。このあとに続ける言葉を、土方は用意していなかった。ただ表層に浮かびあがったものを搾りだしたに過ぎない。搾りだしてから喉が血で潰れたような、ぬめりとした感覚が唾でこみあげたが、それは肉体に刻まれた記憶からくる、土方の条件反射だった。梅干を見ると唾がでてくるように、土方はあの記憶に結びつくものに対しては血の唾がこみあげる。
「……借り?」
吹きつける生ぬるい風を避けるように首を捻った坂田は、想像通りの目つきでそこにいる土方に胸焼けした。こみあげてきた胃液の酸っぱさを押し戻してその目と対峙すれば、途端に遠近感は狂う。
これは、いまだにドブの中を這いずりまわっている目だ。
借りという言葉で煙草の煙をぞんざいに吐きだした土方の視線を、坂田はどこか他人事のように受けとめた。その坂田の眼球を射すのは、土方の背後にある外灯から滲む、オレンジにぼやけた円だった。そこに重なってくる土方の妙に乾いた空気にあてられ、さっき腹に満ちたばかりのビールがすでに涸れたとまで感じた。飴玉の包み紙を握りしめたままの汗ばんだ拳を握る。疲労はピークに達していた。
そこにまた、土方からトドメとばかりに投げて寄越される。
「辞めたっていう女のかわりにモニターやらせろ。俺に」
「……………は?」
あまりなことに耳を疑う坂田の混乱した脳味噌に、「さっき店で聞いた」と吐きだす土方の煙が充満していった。ふいに、さっき無駄に土方に顔を寄せていた長谷川のグラサンが浮上して、坂田は苦虫を噛み潰すごとく顔を歪めた。坂田が便所に篭もっていたあの短時間で、なんらかのよからぬ情報を吹きこまれた土方が、とんでもないことを言い出した。坂田にとってこれは予想斜め上どころのはなしではなかった。それも、バイトであいつの代わりにシフト入るよ、とでも言うような、淡々とした口調で。
「……何のこと。ってか話が突飛すぎてわかんねェ」
「男でもいいんだろ」
あのグラサン今度口にガムテ貼ってやる、と坂田は思った。
とぼけたつもりが即座に返ってきた土方のそれに、めまいがする。
どこかに凭れかかりたかったが、ベンチも壁も見当たらない風ばかりが吹きぬけるこの空間では、自力で立っているしかなかった。飴玉を舌で回してから、べたついた髪を掻き毟って「これ、何本」と指を突きたてた坂田に、土方の鋭い目が向けられる。
「この暑さのせいでアタマおかしくなってんだろ。何本だよ」
目潰しのかたちで土方の眼前にピースの指を突きたてた坂田のそれはあっさりと払いのけられた。ぱし、という乾いた音に弾かれた坂田のピースはあっけなく落ちる。
「俺は本気だし、おかしくもなってない」
「眼球カッサカサだぞ。目薬あるけど使う?」
「女にはいくら払ってた?」
「聞けよ」
ぬるい手で撫でられていくような風の不快さに、土方のにおいが混じってくるのが苛立たしかった。すうっと細められた坂田の目が、光を取り入れるのをやめたみたいに暗がりになる。
「わかってんのか?俺がやってるのはピザ屋じゃねェんだぞ」
「しつけえ、さっさと答えろ。日付が変わる」
なんでもいいから、この火照った脳を冷やす何かが必要だった。腐ったトマトみたいにぐじゅぐじゅに崩れかかっている脳味噌では、これ以上何も考えられない。考えたくなかった。そうして自身から吐きだされる酒臭い溜息にも、ドブが混じっていると坂田は思う。
「……。一回、五千円」
「じゃあ俺はその半分でいい。それを踏まえたうえでテメェはイエスかノーかだけ答えろ」
「はァ……。そもそもどういう了見で言ってんだ、ソレ。本来のお前なら真っ先に嫌悪しそうな話だよなァ?それを自ら雇えって。まさかいつかの借りとやらを返したいから、お仕事手伝いますってか?」
答えによっては殴るつもりで拳のなかのセロファンをぐしゃりと鳴らした坂田の目に、それは飛びこんでくる。息が詰まる。あの頃は遠目でしか見なかった。滅多に見せなかった、土方の。
「そんなんじゃねえよ」
土方のふせてよわまる目蓋は。その笑い方は、あいかわらず下手糞だった。
「今の俺に必要だと感じたことを選んでるだけだ」
「必要って、お前……」
それ以上何も言うつもりのないらしい土方の眼の光につらぬかれた坂田は、一気に飴玉を噛み潰す。歯にひっつく甘さも物足りないほど、何かが圧倒的に欠けている。たとえばもう少し若かったなら、この視線を突っぱねることができた。もう少し歳を重ねていたなら、ぎりぎりまで思考を投げずに、テメェはバカだと言えただろう。しかし今は、そのどれもが己の中でぶつぶつとちぎれていくのを坂田は感じる。
すべてのまともを放棄した末に帰ってきたプレハブで、久しぶりに感じる他人の熱がなんでこいつなんだろうと遠い思考で坂田は思う。脳だけがどこかに切り離されたみたいに、浮かべたものが肉体の外にある感覚だった。そのおかげで普段の手際通り、坂田の指先は淀みなく動いた。詰んであった箱のひとつを裂き、それをひっくりかえして土方の前にぶちまける。「こっからどれでも」、そう告げた坂田の首筋には、血管が青く透けていた。ひとつひとつが緩衝材に梱包されたそれらを能面のように見おろしている土方に、「お前、使い方わかんの」とそんな疑問をぶつければ短い相槌が返ってくる。
思わず坂田は土方を見て、やめるなら今だとぞいう喉元まで出かかった言葉を飲みこんだ。その根の深さに目を細め、なにかを抑えこむように拳を握ってから、坂田は声を捻りだす。
「使ったらコレに所感書いて出せ。期限は二週間。好きなだけ持ってっていいが、壊したら弁償しろ」
「持ち帰んのは無理だ。同居人がいる」
ぐしゃりと歪めた紙の、『使用感』の欄から坂田は目をあげた。
同居人?
思わず詮索しかけたところを、こめかみに響きつづける鈍痛により口をつぐんだ坂田は、何かが腹の底からこみあげるのを押し戻すようにツバを飲みこんでから手中の紙を、扇風機の風で飛ばないようにしてローテーブルに灰皿でとめる。これ以上、会話を続ける気力がなかった。
「一時間で戻る。そのあいだに終わらせとけ」
とだけ言い置いて、もはや土方と目を合わすことなく出たプレハブの外は、地獄釜のごとき暑さである。坂田は口内に溜まった唾を道路に吐いた。こんな深夜にどこへ行けというんだ。