1、血
海中からひきずりあげられた坂田は、イカスミみたいな夜空のもとに転がされた。乾いた掌で濡れた頬をペチペチ打たれると、どこかに逝っていた意識がげえげえ胃の腑から迫りあがり、体内から吐きだした海水に混じる血は、複数のビーチサンダルに荒らされる。足跡つけられまくりのボロ雑巾よりも、ひどい有様だった。再び地獄に突き落とされるまでの短すぎる猶予のなかで、うまくもない饐えた空気をとりこもうと肺だけが必死に喘いでいた。いいからさっさと落とせよ。虫の息で笑いながら坂田は、
「なんだ、テメェか」
と吐き出して、頬をペチペチやってくる土方の手首を掴んだ。掴んだもののすぐに放して、口もとのよだれをぬぐった手であたまを掻き毟る。べたついた髪の毛が何本か指の先に絡まった。束の間眠ってしまったらしいことが窓の透け具合でわかって、腹ばいになってカーテンのすそをひく。スウェットから覗く坂田の濡れた腰の窪みを、土方の充血の眼が見おろす。汗のたまったそこにシャツをひっぱりおろしながら坂田が、カーテンで半分影にした部屋を振り返る。昨夜、赤紫に腫れあがっていた土方の右目の周りは、そこから汁があふれてきそうな青痣になっていた。たまに口喧嘩をするぐらいの仲だった土方とこんな朝を迎えることになるとは、昨日までの坂田なら想像さえしなかった。
夕べからの汚れた制服でいる土方はまだ完全には正常に戻っていない虚ろな目つきで、その坂田を見た。「靴借りてく」というたったそれだけの言葉を土方はひどくかすれさせる。一音ごとにひび割れる、痛々しい喉の潰れ方だった。坂田の、濃いとも薄いともいえない脛と、ひかりに透けた布団に染みこむ色をわけもなく目に焼きつけてから背中を向ける。床のものを避けてはふらつく土方の靴下に、こびりついている乾いた血の痕が、遠ざかっていく。途中でレジ袋を踏む、かさついた音がした。前屈みになった玄関で、裏返った坂田のサンダルを戻す土方の白シャツが朝の光に区切られる。
そうして土方が出て行くまでを、敷布団のうえから微塵も動かずに見ていた坂田は、床に横たわるペットボトルに意識を向けた。それを立ちあがりざまに掴みあげると残り少ないミネラルウォーターが中で動く。寝起きの低血圧で若干傾きつつも坂田は土方の後を追って裸足のまま飛びだした。郵便受けに突っ込まれたダイレクトメールの束の、そのすきまから射す光が瞳にあふれる。
玄関を出てすぐの路上に、まだ土方は立っていた。
その頚部に貼られたバンドエイドのしわに坂田の目はいく。
坂田は黙って土方の鼻先に、ペットボトルを差しだした。その透明の波打ちと、そこに重なる坂田の短く切り揃えられた爪の先を見おろす土方の目は、やはり虚ろなままだった。腫れたまぶたに潰されている右目の、うっすらと開かれたそこは血の色に濡れていた。土方の手が、ぬるい感触に濡れる。ふたをひねって、ひとくち含んだそのぬるさが、土方の荒れた喉を潤していく。五時でも明るいこの季節の光が、このあたりの薄汚い町並みでさえ健全だと錯覚させるほどの強すぎる色調で、そこらじゅうに射しはじめていた。沈黙に降る、鳥の囀り。ひとくち含んだだけですぐに口元から離したペットボトルを土方は力なく降ろす。その底から垂れ落ちる水滴がアスファルトを濡らしていった。
「ドブくせェ」
坂田の目があがる。
そう吐いたきり黙りこんだ土方の指先が、ペットボトルを凹ます。
坂田は何も言わなかった。土方の隣で、電柱から剥がれかかっている風俗の貼り紙をとらえながら、ふいに、息を詰めただけだった。それはほんの一瞬、息の仕方を忘れたかの如く、打ち寄せて、そうしてまたすぐに引いていく、かすかな苦痛だった。耳がじくじくと、膿んだ熱をもっている。土方のくらい眼をつらぬく光。あとには強すぎる季節だけがそこに痛みで焼きついた。おさめきれずに、だんだんとピンぼけしてくるそれが、まばたきで潰れる。血に濡れた瞳の奥へと、柔らかく閉じこめられる。
ペットボトルを坂田の胸に押しつけた土方は、今度こそ歩きはじめた。
一歩進むごとに崩れ落ちそうになる土方の身体が、少しずつ遠ざかっていくのから、坂田は目を離さずにいた。二日風呂に入ってない坂田の身体からは、塩素の匂いが汗で噴きこぼれた。土方が口をつけたペットボトルの、口紅のごとき血の色に濡れている飲み口を、坂田の親指がぬぐう。
この五時間と十三分前、ちょうど日付の変わる頃合に唐突にフェンスをのぼりはじめた坂田のことを、乾いた表情の高杉があくび交じりの目で見あげている。夜闇にがしゃんがしゃんとうるさく響かせながら坂田の薄っぺらいサンダルがよじのぼっていく高校・裏門のフェンス。
「なにしてんだテメェは」
「小便」、とフェンスを跨ぎながらの坂田が返す。
高杉はポケットに手をつっこんで、「それがなんでフェンスのぼることになんだ。そこですんのか」、靴底でフェンスを揺さぶる。その振動に落とされかけながら坂田は、「やめろ。テメェの頭上でしてやろうか」と早口で捲くし立てながら向こう側へと着地する。「そのへんですりゃいいだろ」、体力を少しずつ搾り取る蒸し暑さで、会話をするのも高杉は億劫だった。「こないだそれでオマワリにお叱りうけた」、そう答えて夜のグランドへと遠ざかっていく坂田に背を向けた高杉はフェンスにもたれかかり、皮膚がめくれてえぐれた拳の肉を見おろしながら、いつかに食べた鹿の肉を思いだしていた。
今すぐシャツを脱ぎ捨てたいほどの蒸し暑い夜の中、坂田はプール施設の前までやってきた。二階にあるはずのプールサイドは夜と同化していてほとんど闇だった。それを見あげながら敷地内へと足を進めた坂田は更衣室の前を横切って、奥まった場所にあるトイレへと一直線に向かう。ここへ来てさらに上昇した体温が、汗のにおいとなって身体中の毛穴という毛穴から噴きだす。どこかで落ちる水滴の音に、耳の穴まで濡らされていくようだった。
坂田の片眉が跳ねたのは、目的のトイレの前に、男が立っていたからだった。
その男の頭の右サイドに入れられた蜘蛛の巣のラインを、坂田は見る。
あきらかにこんな時刻にこんな場所にいるのにはふさわしくない出で立ちをしたその男は、坂田を見て「あれ?」という首の傾げ方をしてみせた。
その存在ごと見なかったことにして中に踏み入ろうとした坂田は、
「ここ使用中」
と通せんぼしてくる男の足を見おろすはめになった。ハーフパンツから伸びたそれに阻まれた坂田が「あー、すみません。今にも膀胱が破裂しそうなんで使わせてもらえないですかね?すぐ済ますんで」と言い終えるやいなや、この場に似つかわしくないムーンリバーが突如として流れはじめる。足をおろしてハーフパンツのポケットから七色に明滅する携帯を取りだした男は「まあいいか。小便くらい」と呟き、おそらく誰かとの通話のために別の場所へと去っていった。虫でも見るような目つきで坂田を見ていた男の声が遠ざかると、坂田はトイレへと入っていく。便器の前に立った坂田が今しがた耳にしたばかりのムーンリバーを口ずさみながらジッパーをさげ、ちょろちょろと用を足していると、
「ん…んんっ…ふ、っぅぅ…っ…」
という荒い息がそこに混じりはじめた。
坂田はムーンリバーをひっこめた。背後の個室へと耳を澄ます。それは喉から血を噴きだしつづけているかのような声音だった。そこにレジ袋よりも軽そうな別の声がかぶさってくる。
「っあー、ミサキさん?もうちょい待ってくださいよ」
小便を済ました坂田はジッパーをあげ、声のする個室の振動をじっと見た。がたつく扉を映すその目に、汗がこぼれ落ちる。そこから右へと眼球をずらした坂田は鉛のようにだるい足を動かして、それの隣の個室へと踏みこんでいく。そうして隣とを仕切る壁にゴム底を曲げるまでサンダルを押しつけながら、塗装の剥がれた天井を見あげた。そこには十分に、手をかける隙間があった。
「こいつ、まだ力残ってんすよ、多めに打ってんのに…っ、オラ暴れんなって」
ひたいに滲みでる汗がまた目蓋に伝い落ちるのをまばたきで跳ね返した坂田は、できるだけ軽めに壁を蹴ってそこを一気によじのぼる。天井との間のわずかな隙間に手をかけ、そこから隣を覗きこんだ。真下に動いた坂田の眼球に、箱のなかの光景が映しだされる。
「ふっ…っぅん…っ…っうぅ」
壁でひとつになった影が小刻みに蠢いていた。
金鳳凰の刺繍入りパーカーの動く腰にあわせて、押さえつけられている黒髪がドアにこすれるたび、がたつく扉、ひたいで擦られる化粧板はそこだけ色を変え、首にあてられたナイフは反射で鈍く光り、剥きだしの太股を伝う赤い血が、両足首にひっかかったズボンへと落ちていく。やがて体重を支えている指の力が限界を迎えて床に着地しても、地鳴りのような喘ぎ声と、肌がぶつかる妙に乾いた響きが坂田の耳に渦巻いた。目に入る汗をまたしてもまばたきで飛ばす。そこを出て、再び隣へ。がたつく扉を前にして坂田は、左利きか、と独り言を吐いた。坂田はプールに飛びこみたいと思う。冷たい水中に今すぐ。その手が眼前の扉の、使用時を示す赤の錠に伸ばされた。
すこしの握力であっさりと錠は壊れ、錆びついた音とともに勢いよく扉は開け放たれる。反動で飛びだしてきたそれを避けた坂田は、たたらを踏むようにして膝をついた土方が呆然と振り返ったことには何の注意も向けず、目の前の下半身を露出したままの男に向かった。その渇いて血走った目が、坂田を見る。そいつの鈴口で玉になっている汁がプツリと途切れたのと同時、思いだしたように突き出されたナイフの切っ先がひゅんっとブレた。左利きに対する構えはできていたはずなのに坂田は、「あ、間違えた」、いつもの反射で右に避けてしまう。瞬間、熱い痛みが坂田の耳を襲った。べちょっと目の前に落ちた塊を、土方の充血した瞳がおぼろげに映す。赤紫に膨れたまぶたを懸命にもちあげてみても、土方のもやのかかった思考では、そこに落ちているものが坂田の耳たぶだと認識できない。小学生の時分、クラスの女子から渡された手紙に貼りつけてあった、ぷっくりシール。そんなふうに土方の目には映る。そのそばで坂田が繰り出した蹴りは男の手中のナイフを弾き落としたが、今度はふくらはぎに切っ先がかすめて血が噴きだした。痛みを殺して踏みこんだ坂田は男の前髪をひっつかみ、そのひたいごと壁に打ちつける。ついでに半開きの扉を動かしたら、ちょうどその隙間にあった男の指が挟まれ、何本か骨の砕ける音がした。ずるりと足元に落ちてきた男の右脇腹にとどめの蹴りをいれてから、坂田は動かなくなったその身体を探って二つ折りの財布から免許証を抜き取る。名前と住所を目で辿ったあとすぐ頭の中で反芻してみるが、今見たばかりの番地が既に思いだせない。まァいいか、と坂田は、タイルに落ちていた携帯を真っ二つにへし折ってようやく、下着もスボンもあげずに濁った目で見あげてくる土方に向き直る。
切れた耳の断面に、坂田は手をやった。
「一応聞くが、和姦じゃねェよな?」
近づいてくる足音に気づいた坂田は、膝をついたままの土方のそばに寄った。その口にはられたガムテープを端から剥がしてから後ろ手に縛られた拘束をすばやく解く。顔の殴打痕や、手首の鬱血、そして腕にうっすら残る注射針の痕を見おろした坂田は、背後に立った気配に「忘れもんか」と問いかけた。小刻みに震えている土方の腕が、濡れた床に今にも崩れ落ちそうだった。無意識に屈することを避けているのか、正常を奪われても尚、土方の瞳孔は膨らんだままだった。
「あ〜、お友だちだった?」
その背後の気配がわずかにゆれる。
坂田のちぎれた耳の断面と切られた太股から、どくどく血は流れつづける。
「暴れ牛みたいだったよそいつ。歯ァ折られるかと思った。大体、そこでのびてるバカがヤリ足りねえとか駄々捏ねなきゃ、今ごろ俺は涼しい部屋で街歩き見てたんだクソが。男のケツなんて掘りたかなかったけど、仕方ねェよな、そいつがあんまり生意気だから。まァ、ふつうなら萎えちまうとこなんだけど、そいつは……そうそれ。その目。俺でも楽に勃ったもんなァ……」
坂田に肩を貸してもらって歩きはじめた土方は出際、その男の口めがけて二本の指を突き入れた。呻いた男が、歪めた瞳に土方を映す。その顔面に飛ばせるツバも出てこないほど、土方の口腔は渇ききっていた。三秒にも満たぬうちにそこから指をひいた土方はもはや目の前の男には目もくれなかった。ぽろりと血のついた歯がそのへんに、かるい響きで落ちる。
ずるずる歩いた末にようやく施設を出て、中よりかは幾らかマシな外気にふれた頃、土方が、指にべっとりとついた唾液をどこかで洗いたいと言った。
「それか切り落とす。ナイフはあるか」
シャツ越しに吸いつくその土方の体温に胸焼けをおぼえた坂田が「またあそこに戻ればあるけどな」と返して、会話は終わる。
そんなふたりを物珍しそうに見た高杉は、
「なんで小便行くだけでテメェの耳はちぎれて、加えてそんなモンお持ち帰りするはめになるんだ?」
と土方の前髪を掴んで持ちあげたが、ここにくるまでの道中でその意識はぷっつりと切れていたので、かたく閉じられた目蓋がかすかに震えただけだった。どうすんだコレ?その高杉の問いに「知るか」と返して歩きはじめた坂田は、土方をずるずるひきずって黙々と帰り路を行く。どれだけ暗くても、この街にだってコンビニはあるし、外灯も点々と灯っているはずなのに坂田の目に映るものはすべて黒く塗りつぶされていた。見つめている一点から穴がひろがるようにじわじわと闇が生まれてくるようだった。水の音がする。ここまで海が迫っている。陸のうえでも坂田は、時々、息の吸い方を忘れる。ただ前に進んでいるはずの単調な足並みがばらばらと虫のように乱れはじめ、なにもないところで立ちどまりそうになる。
途中までついてきていた高杉はどこかの信号で振り返るといなくなっていた。しばらく姿を眩ます、いつもの高杉の消え方だった。玄関を開けるときにだけ、その高杉がいないことに舌打った坂田は、土方の身体を担ぎなおす。これがマネキンだったらどれだけよかったかという気分で部屋までひきずり、足を使って広げた客用マットレスに土方を寝かす。解放された坂田の身体からはどっと汗が噴きだした。耐え切れずにシャツは脱ぎ捨てる。部屋の灯りは点けなかった。閉め切っていた窓をあけ、網戸にすると、ちっとも入ってこない夜風のかわりに入ってきたのは酔っ払いらしき笑い声だけだった。土方をまたいで箪笥の抽斗をあけた坂田は、暗闇のなか手探りで奥まで突っ込み、指先に当たったものをひっぱりだして月光だけを頼りにそこに記された文字を辿る。軟膏で間違いなかった。次に財布からコンドームを取り出した坂田は指先でその中身を端に寄せながら、うつ伏せの土方のそばにしゃがみこんで、しばらくそこによどむ暗闇を見ていた。土方の腰に手をまわすときは、その蒸れた匂いが鼻先に迫る感覚に息を詰めた。爪にかつかつと当たるバックルのみが冷たい。すべてはおろさずに太股でとめておいた学ランの黒が、暗闇に同化して犬かなにかに見える。ここまで微塵も動かなかった土方が、下着のゴムに手をかける段になって、びくりと震えた。闇のなか、坂田の片眉があがる。寝ておけばいいものを、と舌打つ坂田がそれでも下着をずりおろすと、拳が飛んできた。それを手のひらで受けとめ、闇に慣れてきた目で、土方を辿る。うっすらと波打っている土方の眼は、恐怖とも絶望とも違う、抗いの色をそこに映していた。「悪ィな、うち風呂ねえんだ」、その低くこもった坂田の声を耳にした土方は弛緩するが、次の瞬間、身体の内部にずくっと這入りこんでくるあの感触に全身を跳ねさす。身の毛もよだつ生々しさ。
「っ……!ひ…っ」
「掻きだすだけだ。じっとしてろ」
暴れる土方の腰をひきもどし、コンドームをまとった二本の指で粘膜をひろげるように探った。裂傷があるのは間違いない。今部屋の灯りをつければ土方がどうなるかわからないので、経験からくる第六感をもとに、坂田はなるべく強くなりすぎないように浅いところから少しずつ掻きだしていった。その間中、土方から狂ったように溢れだす叫喚は、坂田のなかの何かを確実に蝕んでいった。
「ッ!!…っあっぁあ、やめ…っ、!やめろ、」
「抜け!!!ふっぅ…うぅ、抜けよ…っ!」
「…っ死ぬ、しぬ、っく、ぅ、っ殺す…んう、ふ…ッ殺す……っ!!!!!」
土方のやり場のない拳が、マットレスから埃を飛ばす。坂田の鼻のあたまから垂れ落ちていった汗の粒が、土方の肌の色に混じった。暗闇だからこそ研ぎ澄まされた感覚が、コンドーム越しに人差指と中指にまといつく生々しい肉のぬくみを、坂田へと送りつづけた。見おろす土方から噴きだしつづける闇が、坂田の目を眩ませた。これはなんの穴だ?とさえ思う。耳の穴どころか身体中の毛穴から這入ってくる土方の声が、内臓がスピーカーになったかのごとく血液に巡る気がする。坂田はその暗くて温かい穴から一心に掻きだし続けた。すべてを終えた頃には部屋が白みはじめ、輪郭がとらえられるくらいの明るさで物は縁取られた。最後の力を振り絞って敷布団をひろげた坂田はそこに倒れ臥す。すぐそばに土方の体温を感じた。勃起しているものをどうにかしなければと考えながら閉じた坂田の眼は悪夢を見ている。