土方さんが俺の恋路の邪魔をする。つまるところ携帯電話を没収された。先月の通話料金が桁ひとつ多いぐらいで、土方さんは青筋たててぶちぎれました。挙句の果てテレフォンカードを十枚ばかり寄越し、眼のしたにクマぶらさげた山崎まで押しつけてきやがった。だからこうして山崎の目を盗んでは公衆電話を探さなければいけないはめになった。七面倒くさい。テレフォンカードの束から一枚めくって挿入口に突っ込む。そらで覚えている番号をプッシュしてから受話器を耳に押し当てて待つ。トゥルルルル。トゥルルル。がちゃん。「はい万事…」「あ旦那」ぶつッ。トゥートゥー。あれれ、切れちった。にゅっと吐き出されたテレフォンカードを取り出すことなく再び押し返し、そらで覚えている番号をプッシュして二度目の呼び出し音、がちゃん。「……はい万」「切れちまいましたね」「……切れちまったんでなく切ったんですけど」「えっひでーじゃねーですか」「用件を云え」「旦那の声が聞きたかったんです」受話器の向こうで血管の切れる音。おそらくそうだと思う。それ以外に、ぶちっという音をたてるものはあっただろうか。そんなことを考えながら公衆電話の箱に映りこむ青空を眺めている。きょうもよく晴れていること。「ふざけんのもいい加減にしろよ毎日まいにち用もねーのに掛けてきやがって警察ってのはそんなに暇なんですかぺちゃくちゃがみがみぷんすか」旦那の声が耳のなかを泳いで、ひどく満足だ。このひとの朝いちの声は低くかすれて色々まる出しで、ひとことであらわすなら性的。狐の嫁入り。つめたく生々しく吸い込みたいもの。「おい聞いてんのか?」「もちろん聞いてまさァ、あ」透明の箱に貼りつくモンスター山崎と眼が合った。もう見つかっちまった。タイムリミット。た、い、ちょ、う。な、に、や、って、る、ん、で、す、か。口をひろげて猛アピール。必死の形相があまりに不細工。「旦那、まだ話し足りないとは思いますが時間切れみたいでさァ」「はァ?!」「そんなに残念がらないでくださいまた掛けるんで」「いや金輪際かけっ」なくなく受話器を置いた。箱から一歩踏み出すと、つめたい青空とモンスター山崎が待ち構えている。

 夕暮れのかぶき町。あかいろを引き摺るようにして歩く人間たち。それを割くようにして練り歩く黒い自分たち。真選組。ずるずると先ほどから鳴り止まない山崎の鼻柱をむにゅりと摘むと、痛いいだいと金切り声、うるさいやつだ。そう高くはない山崎の鼻に爪痕がのこる。道路を赤いサイレン撒き散らすパトカーが走っていった。「なんかあったんでしょうか」距離の近さに、まるで山崎の鼻の穴から垂れる提灯がしゃべっているみたいだ。「さあな」ふいにずらした眼球のはじっこに、突如しろいもじゃもじゃを捉えた。マシュマロから飛び出た綿毛のような、わたあめが爆発したみたいな、そんなやつ。いまだに道路を走っていくパトカーに注意を向けている山崎をのこして、その毛玉を追う。毛玉はパチンコ屋にゆらゆらと吸い込まれていく。そこに毛玉が踏み入る一瞬、耳を突いた騒音が、自動ドアが閉じるにつれて遠ざかる。閉じきる前にそのあとにつづいて中に身体を滑らすと、どっと耳の穴をつんざくジャラジャラ攻撃。狭い道を進んでいくとともに左右に流れ散っていくハゲあたまや銀色の玉の敷き詰められたドル箱や『玉を抜いてね』というアスカ声やタバコの煙エトセトラ。目的のものが台の前に座るのを見つけて自然と唇は緩くなる。ゆるゆる。にたにた。ゆっくりとそれとの距離を縮めていく靴先が踊りだしそう。と、そこまでは機嫌最高潮だったのだが、毛玉の奥で縦揺れしている汚いグラサンが見えた瞬間、唇は真一文字になった。汚いグラサンが右を向いてなにやらもごもご唾を撒き散らし、その合間に「銀さん」とかなんとかかんとか。

「俺を出し抜いてグラサンとよろしくやってるなんてひどいでさァ」
 毛玉がこちらを向いて、んげっ!というかおをした。すこし機嫌パラメーターがあがった。
「なんでテメーここに」
「見廻り中で」
「あっそう頑張って」
 そっけない後頭部がもじゃもじゃと鼻先を掠めた。くしゃみでそう。台に向き直った顎のラインをうしろからじっと眺める。ハンドルに添えられる、がさがさの手のひら。長谷川さんそっち、と動く厚めの唇。機嫌パラメーター再び下降。おもいっきりくしゃみをした。ツバも鼻水も飛び出て銀髪にびちゃっとかかった。
「……」
 無言の男に、「あ、すいやせんむずむずして」とかわいく謝ったあたりで、時間切れがきたようだった。パチンコ屋の騒音も吹き飛ばすほどの爆発音があたりを切り裂いた。人間たちの悲鳴。暫くしてまた爆音。ああ邪魔がおおい一日だ。仕事だろはやくいけ、とばかりに、しっしと手で払った男に残念だなあと背を向けかけたが、その前になにかのこしていきたいと、ふと思った。「旦那」「あ?」
 振りむいた男の鼻をかぷっと噛んだ。わりとつよく。あ、まつげ意外とある。ゆっくりと離すと、男は完全に固まっていた。ついでに隣のグラサンも固まっていた。正常値にもどる機嫌パラメーター。男の鼻筋にくっきりとのこる歯型。「じゃあ、また」くるりと背を向けて歩きだす。ほぼ同時に背後で響く、「大当たり〜!」。じゃらじゃらジャラジャラジャラジャラ。「うわっ銀さん!当たってる!」またグラサンがなにやら喚いている。ああ、あんなに汚いグラサンでも喋れるなんて世も末だ。


 床の隙間を蟻がのろのろと歩いている。足の親指の爪だけがやけにしろい。近藤さんの笑い声はむやみに反響するから、どうしたって立ちどまってしまうのだ。上機嫌の近藤さん。がははははと笑っている。言葉の端々でさも当たり前のように呟かれる「トシ」という胸糞悪い二文字。いっぽうで土方さんの笑い声はとんと聞こえやしない。あのひとは近藤さんのまえで声もださずに静かに唇を緩めているに決まってる。誰にも見せないで。誰にも聞かれずに。近藤さんの前でだけ。うえ、きもちわる。指の隙間で蟻が逆立ちしていた。殺しはしない。人を斬るまえに蟻なんてどうでもいいだろう。今宵は人斬りの日。
 出て行く前に土方さんに呼びとめられた。
「お前、山崎の目盗んでは何やってんだ」
 首だけ傾けて振り返ると、土方さんは鋭い目つきを隠さずにこちらを凝視していた。
「あれ土方さん気になりますか」
「仕事ほっぽって何してる」
「そんな野暮なこと聞かねェでくださいよ」
 おや、土方さんもあかいろを引き摺っている。くろとあかが混ざって、ややこしい輪郭をふちどっている。これまで何度も見てきた光景だ。見たくなくとも、昔から目にこびりついて剥がせやしない光景だ。土方さんは、まァいい、と煙を吐いて、鼻をすんと鳴らした。その鼻を噛みちぎってやりたいと思った。

 雨。ざぶざぶの。刀の切っ先から垂れる血が、水溜りにぽちょり。やけに冷たい汗をぬぐって一歩踏み出すとふらりと身体が揺れた。たてつづけに何人も斬ると、回転椅子に乗ってぐるりぐるりとまわされたあとのように足元がぐにゃりと歪んだりする。外で待機していた隊士のひとりに、「回収しろ、あと入口んとこに肩やられたヤツひとりぶったおれてる」、慌てて駆け出した男に背を向け、濡れるアスファルトに靴を浸ける。山崎の待つ車に向かいかけたが、ふいに踵をずらした弾みに、気が変わった。車とは逆方向へと歩きだす。しとどに濡れていく。吐き出した息は本当にしろいのだろうか。くろいのではないか。
 公衆電話ボックスを見つける。ざあああと雨が耳を打つ。肩を濡らす。睫毛からぴちょりと水滴が垂れる。夜のアスファルトに淡い光を滲ませるその箱に吸い寄せられるようにして沈む靴底。扉を手前にひくと生ぬるい空気が肌にまといついてシャツはますます貼りついた。後ろ手に閉じてしまうと雨音が遠ざかる。しん、としている。狭い箱のなかにひとり。受話器をもちあげた。耳に押し当てなくとも、きこえてくるダイヤルトーン。胸ポケットを探った。テレフォンカード。最後の一枚。あかい血がべっとりとこびりついてしまっている。挿入口ににゅるりと押し込んだ。そらで覚えている番号をプッシュ。受話器を耳に押し当てて、あの声を耳にいれて、あとはいつもどおり。の、はずだった。そうすればよかった。指先をボタンに押し当てたまま耳のあなで鳴り続けるダイヤルトーン。ツーーーーーーーーーーーー。唐突に切れた。血みどろのテレフォンカードが吐き出される。受話器にも血がべっとりとついてしまった。まあいいか。べつに。疲れてしまって眼を閉じた。雨。ざぶざぶの。小指の爪から垂れる血が、ぽちょり。くろとあかが混ざって、ややこしい輪郭。あおぞらと、ゆうぞらと。近藤さんの笑い声。土方さんの笑い声はとんと聞こえやしない。ただ声も出さずに静かに唇をゆるめているだけ。かっこつけの胸糞わるい。ちかいとも、とおいともいえない距離で、ふたりは笑う。見たくなくとも、昔から眼にこびりついて剥がせやしない。

 背後でなにかがぶつかる音がした。はじけて散った、あかとくろ。ゆるりと眼をひらく。

 ゆっくりと振り向いた眼球に入りこんできたものは湿った銀髪の天パだった。透明の箱に押しつけられた手のひら、水滴の伝う顎、気だるい眼差し。『あけろ』透明のガラス越しにくぐもった声が聞こえてくる。じゅわりと曇るガラス。押した扉の隙間から雨音がひたひたと這入り込み、なんともいえない匂いがした。男が身体を滑り込ませ、再び音は閉じる。あーさぶ……。ぐっしょりと濡れた男ふたり。
「旦那なにしてんですかこんなとこで」
「やるよ」
 数センチもあいていない距離に、突如あらわれる四角い箱。それを胸板におしつけられ、背中がガラスに擦れる。角がへこんでいるし濡れてぼろぼろだし滲んだ視界ではよくわからないがなんとなく『DOG FOOD』という文字が刻まれているような気がする。「なんですかこれ」「犬の餌」
「こないだの景品」
「ああ」
「ウチの犬のお口には合わなかったのか吐き出しやがった」
「それを俺にくれるんですか」
「噛みついてくる犬には餌って決まってんだよ」
「なるほど」

「それにお前んとこのニコチン犬もよく食ってんじゃねーか」

 『DOG FOOD』というロゴが二重にぶれていた。皺くちゃの箱、ぐしゃりと悲鳴をあげる。唇がゆるゆる。歯がこぼれおちそうだ。耳のそばで振ったその箱が乾いた音をたてる。からから。からから。
「たしかに大好物だ」
 血のついた箱を耳元でからからと振りつづけた。これで当分、餌には困らない。旦那、やっぱアンタ最高です。扉を押して出て行く銀髪の背を見つめた。そのしろい輪郭が雨に滲んで見えなくなるまで。

 ああ、さっき。ひとりだったこの箱で。血にまみれた匂いのなか。背後に感じたあの気配を。
 なぜだろう。土方さんだ、と思ったのだ。振り返る、その瞬間まで。

2013.11.26/ドッグフード・ノイズ