またひとつ季節は欠け落ちて、二十九になりたての土方の肌には日焼けの赤が兆す。首すじに透けているスクラッチのような爪痕も虫刺されを掻いたもので、そこに春はもう窺えない。そうして日々は暦どおりにめくれていく。あまり子どものいない公園を、ぺらぺらのサンダルで過ぎていくこの近道も、数え切れないほど通った。虫よけスプレーを振りたくりながら土方のななめうしろをついていく銀時の、肌を伝っていく汗のしずく。それは鎖骨を通り、熱気のこもるTシャツのなかまで滑りおち、ヘソの穴までべとべとにした。公衆灰皿にタバコを押しつけにいった土方の、伏せた睫毛を透かすひかりは七色。スプレーのストッパーを親指で弾いた銀時が、土方の日焼け痕めがけて引き金をひく。
「ヒッ、なん、!?」
「虫よけ」
二度、三度、さらにTシャツをめくって噴霧したら、たちまち土方のにおいは、うさんくさいアロマに上書きされた。冷たそうに身をすくめた土方の反応に、ゆるやかに銀時の喉仏がもちあがる。そのまま水道に吸い寄せられ、蛇口を捻ったそこへ唇を寄せて起こる水飛沫が、土方の鼻先まで届いた。口で受けとめきれない透明が男のシャツを濡らすのを見ている、土方の無意識からくる眼差し。
銀時を置き去りに、スプレーで染みた首筋をさすりながら、公園を出た土方の目線の先、其処から伸びる階段はアパートまでつづく。いつも五十段目あたりまでしか数えたことのない階段を、背中を焼かれながらのぼりはじめ、冷蔵庫の冷えたカルピスを支えに四十八段目まできたところで。「あ、洗剤わすれた」、背後からのつぶやきで、土方のあたまから数字がすっぽぬける。
「あったろ、まだ」
「そっちじゃなくて台所の、あー、いいわ、水足せばいけんだろ」
右足をつぎの段にかけ、腰をひねった状態でする会話が、ふいに土方の情緒をかすった。そのとき耳元でぶうんと羽音がして、条件反射で頬を叩いたら、潰れて血をこぼした蚊が手のひらにひっついて死んでいた。「虫よけスプレーって何ゴミだ」 「あん?」 ふたりぶんの脈拍が夏にうるさいなか、「お前の職場もあんぐらいバカでけえの」、遠くに見える高層マンションを銀時が指差す。
「八階」
「低っ」
八階でもじゅうぶん高い。だれもが降りてしまったエレベーターより。自販機でコーヒーを買ってから、ひとけのないラウンジまでやってきた。皮のやぶけたソファに腰を沈め、ガラス張りの向こうに見える雨の街に目をゆるめる。雨にかすむビルと、濡れた道路、駅につながる渡り廊を過ぎていく、まばらな人の流れ。となりのソファで船を漕ぐ常連の、くたびれたスーツが意識にひっかかる。タバコとライターだけ抜きとった背広を脱いでそのへんに投げ、プルタブを押しあげた。ひといきに飲みほしてからのコーヒー缶が、喫煙所ではないここでの灰皿がわりだった。浅いねむりにはいる。
ライターを床に落としたのが目覚めのきっかけで、肩をびくりと揺らした土方の、まだ現実に戻ってきていない虚ろな目が、時を同じくして震えだした携帯をさがして彷徨う。背広のしたで点滅しているそれを抜きとって電話にでたと同時に、「もやし買ってこい」とみじかく告げられ、眉間を揉みながらライターを拾いあげた。急にあたまを下げたら血流もさがって目の前がゆがみ、さっき食べたチャーハンに入っていた、匂いきつめのカットベーコンがせりあがってきて、現実感をとりもどす。
「もやし炒めしようとおもったら、肝心のモヤシねーんだよ。だからレトルトのカレー食った、しかも甘口じゃねェやつ。あ、駅前のじゃなくて業務用のほうで買えよ。安いから」
右耳にはいりこんでくる雑音まじりの声に、なぜか子どもの声がかぶさって起きたての意識には騒々しすぎる。タバコに火をつけようとして、くちびるに何も銜えていないことに気がつく。
「……あれ、タバコ」
「あ?」
「どこいった」
銜えていたはずのタバコがどっかにいってソファのしたを覗きこんでも見あたらず、あきらめて新しいのを取ろうとしたら指先に触れた箱があっさり潰れた。溜息をこれでもかと伸ばしてしまう。
「その声、寝てたろ。サボってんのかよ」
「休憩中だ、あー……なんだ、モヤシ」
「そう、モヤシ。忘れんなよ」
通話を切ってから見つめたガラス越しのどこにも、ひらいた傘は見あたらない。下りのエレベーターが来るのを待つ間、土方は背広に腕をとおしてネクタイを締めなおす。ささやかな休憩の終わり。……帰りにモヤシ。業務用スーパーのほう。とりあえず今はタバコ。雨はやんだから傘はいらない。
子どもがうるさい。土方との通話を終えた携帯を尻ポケットに押しこみ、了承しないうちから、障子紙を手刀で突き破っていく子どもの背中を足先でぐりぐり押していたら、「騒々しくてごめんなさいね」、若妻の出現にすかさず悪意をひっこめ、愛想笑いをつくった。「いえ全然」、胸の谷間にさりげなく目を落としながら麦茶を受けとり、渇ききった喉に流しこんだ。早々に飽きたらしい子どもにかわり、水を含ませたスポンジで、糊のきついところを桟にそって拭きとっては、首にかけたタオルで汗をぬぐう。いつのまにか、おやすみ三秒で寝こけている子どもの、少しずりあがったタンクトップ。その柔らかそうな肌を横目に見て、意識にこみあげた過去の匂いは、どこかのうちのカレーに混じって、もう掴めない。グラスのなかで氷が溶けてぶつかり、子どものねむる縁側に射しこむ陽射し、庇の影がだんだん傾いていく。麦茶をのむ銀時の眼球のすみで、子どものまるっこいゆびさきが時々ふるえるように動いて、そういうのはたぶん、あんしんや、あかるさがもたらす手の届かないものだった。
帰りぎわ、どこからともなくポテトの匂いがしてきて、すれちがったサラリーマンの手に握られたそれにつられるように駅前のそこへ入店した。いらっしゃいませ、スマイルゼロエン。こんなことでさっそく減らしてしまった封筒の中身を数えたあと、二駅分の道のりを三十分ほどかけて歩く。信号でつかまるたびに、まだぬくいポテトを齧ったりして、いつもの公園が近づいてきた頃には見るものすべてにオレンジが混じりはじめた。夕方特有のさみしい色は、重力が急にどっと押し寄せてくるようで汗が滲みはじめ、どこでもいいから今すぐ座りたくなって公園の手前の古本屋にふらり入る。エアコンがあるわけもなかったが、陽を遮ってくれるだけマシだった。棚と棚のあいだの狭い通路にしゃがみこんだら、よりいっそうポテトの匂いが突きあげてくる。汗がぽたり、床におちた。本棚のすきまのホコリの溜まったあたりを、ぼうと彷徨っていた銀時の目が、日の射す角度が移ったことで、ふっと硬直する。
…… 、杉。
本の背表紙に混じるその名前を、読みあげた眼球が左右にぶれる。ぐちゃりとあたまのなかが掻き混ぜられ、まなうらを過ぎりはじめた過去の点滅が、冷や汗となって表層に滲みだす。
血のとれない制服、身体に押しつけられたガラムの甘い匂い、折り重なるようにねむった窓辺、冷蔵庫にいつも入ってたヤクルト、あの声で名を呼ばれ、笑っているときのアイツの片目は、なみだを閉じこめたような、揺れかたを、よくした。
「……土方?」
膝から顔をあげた銀時の朦朧とした瞳を、早歩きで過ぎていった背広が、引き返してくる。狭い入口から覗きこむ逆光の男の目つきが、そこにしゃがみこむ銀髪をみて、すっと真横に伸びた。
「なにやってんだ、おまえ」
「……いやお前こそ、早くね」
立ちあがって土方のほうへ踏みだしたことで、反射する背表紙からは遠ざかった。いつのまにか汗のひいた身体を風に撫ぜられながら、つれだって夕暮れのアスファルトを踏む。
「ここにジャンプはねえぞ」
「お前、俺がジャンプしか読まねえとでも」
「エロ本も置いてねェ」
「なんで知ってんだンなこと」
ふたりの足取りはいつもよりも若干のろく、「モヤシは」 「買った」 「いくら」 「十九円」、土方の目線が銀時の手元に落ちて、「ポテトくさいと思ったら、お前かよ」 「やんねえぞ」 「いらねーよ」みたいな会話が帰るまでつづいた。帰ったあとは交代でシャワーを浴びて、銀時がモヤシを炒め、湿ったポテトと冷蔵庫の残り物でビールをだらだら、消し忘れたテレビを夜に映したまま、折り重なるように、ねむってしまった。あんしんも、あかるくもなかったが、どことなく終電に揺られているようでいい。
ふいに終電から見えた歩道橋を同時に瞳で追いかけてから、「あれ、誰かが渡ってるとこ見たことねェ」、土方がそうつぶやいたのがきっかけで、酔った気分のまま次の駅で降りてしまってから、「さっきの終電だった」と気づいてバカだった。線路沿いに戻ったところで見つけた無駄に高く思えるその歩道橋を、息を切らしながらのぼっていくあいだ何度も階段をころげおちかけ、互いの腕をひっぱりあっては強風に煽られてよろける身体で、バランス悪くふたり立つ。土方の目のさきで、風をうけて膨らむ銀時のシャツ、その腰のあたり、ケロイドの残る肌が見え隠れする。
「歩道橋ってさァ、ゆがんで見えんの俺だけ?」
「いや……、」
くだらないことを喚いていたテンションはどこかにいって言葉数が減ったとき、相手の考えていることが読めなくて、ただそこにある空気とか、吹きながれていく風とか、過ぎていくだけの車、滲みだすにおい、瞬きのすきま、つめたそうな手、汚いビーサン、いつもおなじ無地のネクタイ、なにか云いたげなくちびる、そういうものを五感に刻んで、刻みつづけて、けっきょく十年が過ぎた。そうして今夜もひとつも本質には触れぬまま、歩道橋の手すりに身体を預けた銀時が、感情のない目で、土方を見る。
そのとき歩道橋のそばを電車が駆け抜けていって地響きだった。足元があやふやになった。自分たちの帰るほうとは逆のほうへと走り抜けていくその箱のなかにちらほら人影がみえて、彼らの終電もそれぞれのあるべきところへ帰っていく。夜を過ぎていく、よわいひかり。四角い窓がいくつも、ふたりの瞳を、すべっていった。見えなくなるまでその尾びれを、よわい眼差しで追いかけた。
『……カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。』
記憶の教室は午後のひかりで波打っていて、黒板の日付は七月だった。風ではためくページを押さえながら土方が教科書を読みあげたとき、いつも机に沈んでいるはずの銀髪が、そのときは沈んでいなかったこと。そのときうっすらと、よくない未来を自覚したこと。そうして、そこから続いてきている今、歩道橋のうえにふたりは立っている。ガタタン、タタタン、タタタタン、タタン……、過ぎ去っても見えなくなっても、いまだにどこかを走りつづけている。ガタン、タタタン、タタン……ガタガタガタガタガタ
……ガタガタガタガタガタガタガタ、週末、ボウリング場は深夜でも騒がしい。「きんとき」でとまっているスコア画面を見あげていた目がくしゃっとつぶれ、煙たい元凶のタバコを土方の手から抜きとる。擦れ合った指先はそのままに近くの灰皿に押しつけてから、傾いだひたいに前髪がながれている土方の耳元で、「次、ちんかすのターン」と囁いたところ、そんな微かな声でも反応を示す。肩を震わせたあと、うすいまぶたを揉みながら寝ぼけたような声で「……何時」とこぼした。一時過ぎ、と教えると、いいとも終わってんじゃねェか……、と返ってきてズルっとさがる。
「いいともは三月で終わったし、いま夜中、夜中の一時だからな。大丈夫か、おまえ」
「あー……、そうだった」
疲れの滲ませるその横顔を見ているとじわじわと魔が差してきて、それは薄暗い影となって赤い欲を灯す。口もとを覆う邪魔なものを退かそうとその手首を掴んだら、今はじめてそこにだれがいたのかをはっきりと認識したような目で見あげてくる土方は、歳をとってもあいかわらずどこか隙のある。
「目、覚ましてやろうか」
「……?いい、顔洗ってく、ッんぐ!?」
喋っている途中でその歯のすきまに中指を突っ込んだから、薄皮がめくれたように思う。馬鹿力での抵抗を手首のあたりに感じたが構ってられない。侵入を拒むそれに痕をつけられながら奥へと進ませ、おぼろげだった土方の虹彩がじわっとひろがったり縮まったりするのに目を眇めた。押しかえしてくる舌のうえを往復させ、くらい瞳孔をじっと覗きこみながら、かるく爪で舌をひっかく。土方の歯が中指に食いこみ、わずかに眉を跳ねさした銀時の血がじっとりとそこにひろがった。それさえも塗りこめるように動かしてから、ちかくを人が通ったタイミングでパっと中指を引き抜いて、なにげない、いつもの距離にもどっていく。傍から見たら、嘔吐いている土方だけがどうにも不自然だった。
「あー……、血ィついてら……」
指先に目を落としている銀時の、欲を滲ます声のいろ。飲みくだす唾液にその血が混じっていることを土方が意識したときには、腕をひかれている。有無を言わせず、遊びの時間は終わった。ラックに戻したボールの穴から、銀時のゆびが引き抜かれていく様に、このあとのことを予感させる土方の眼差しがぶれた。そうして連れ込まれたトイレの個室で下着のなかに滑りこんできた手のひらにおもぶるに揉みこまれながら。押しつけてくる男のくちびるを避けると目の前の虹彩があかくゆれる。
「ッおい、こんなとこで」
「さっきまで寝ぼけてお前、ここがどこかも忘れてただろうが」
「待てバカ、帰って、から……」
「帰れねえだろコレ。こんなしちまってさァ……、溜まってた?」
ひたいの擦れあう距離でじっと覗きこまれているのをまともに受けとめきれず真下に視線を走らせれば、勃ちあがった性器同士がひっつくのが見えて土方の腰がうしろへ逃げる。それを追いかけて押しつける肉の熱が、根本から裏筋にかけてをゆっくりと辿っていき、生温かい息が混じりあった。土方のまぶたに透ける青い血管をじっとその目に映しながら、手のなかでぶくぶくと膨れていく生きた脈拍に煽られるように銀時の鼓動も打つ。濡れてきたそこを円を描くように押しつぶすと土方のくちびるも血で潰れた。腰のうしろに手をまわすことでさらに密着した身体から放たれる匂いが理性を殴りつける。
「ッ、そ、こ……は……やめ、ろ」
「こっちもいじったほうがイキやすいだろお前」
「な、……っ、あ」
「あー……、かたくなってんな。よくほぐしとかねェと、な…っ」
体液で濡らしたゆびをそこに埋没させたとき、下唇を噛み潰していた土方が堪えきれずに漏らした声ごと塞いでから、ひたすら奥へと進んだ。口のなかでびくびくと動く舌を吸いとりながら、抜き差しで徐々に広げていき、あとでそこに自分が挿入りやすいようにかたちを変えていく。数を増やしながら突きこまれる指のかたちに、だんだんと土方が感覚を取り戻していくのが擦れあう舌をつうじて伝わってくる。角度を変えながら口づけ、うっすらと目にはいる、土方のまぶたの青い血管にまたも背筋を駆け抜けてくるものがあって、腰を小刻みに押しつけてはまとめて擦りあげた。体内に送りこんだ指先でよわいしこりを往復するたび、滲みだすものが互いの手をぐちぐちと濡らす。ひっつけあっている先のほうに爪を立てたなら、限界のちかい土方の身体が壁をずってきて、体内で折れ曲がった指のはらがぞろりとそこをつよく撫であげた。
「んんっ!……ッ」
「っん、」
痙攣した舌につよく押しかえされて息を詰めたと同時、手のひらに数度にわけてかかった熱いものが、指のあいだを伝っていく。土方のなかにとどまったゆびは吐きだし終えるまでそこをなぞりつづけた。やがて脱力したように落ちていった銀時のくちびるが土方の首すじの汗を吸いとって、早くね……と、こぼす。呼吸するように収縮するぬくもりから指を抜きとって、片手でトイレットペーパーをまわす銀時を朦朧とした目で土方は追いながら、今まで切り離していた外の空気と、ひたすらに鳴りつづけるレーンの倒れる音が、一気に意識にもどってくる感覚に、舌のうえにのこる血を、のみこむ。
「お前、最近女に付き纏われてんだろ」
そう土方の耳に吹きこんだのと、アパートのまえを暴走族が通ったのがかぶさった。それでも聞こえたらしい土方が、身体を捻って振り向こうとしたその眼球から流れ散るひかり。その髪の毛をひっつかみ、むりやりシーツに押しつけ、うぐ、と呻いたそこへさらに体重をかけた。その銀時の息づかいが土方の耳を犯すそば、窓をすべっていく明かりとともにエンジンをふかす音がだんだんと遠ざかっていく。
「こないだ駅まで尾けられてたもんな?何、家行かせて〜って?」
「う、ぐ……ッ、ア、レは、」
「こうやって指絡められてさァ、言い寄られるの、どんな気分なわけ」
「あっ、知る、ッか……、それより、はやくッ……、ん」
「……っとーに最悪だよなお前って。……昔っから」
土方の指のすきまに、べつの熱い指先がはいりこみ、皺のひろがるシーツ。散々焦らされた土方のそこから滲みでる体液が、夏用のシーツを汚していく。浅いところをほぐしていたものがようやく、ずぷりと奥のほうまで突きこまれ、まともに呼吸ができなくなってひゅうっと肺までふるえる。そこに、「昔」という単語がそそがれたことが土方をますますぐちゃぐちゃにした。銀時はうっすらとまぶたをもちあげ、眼前にじわじわと見える、生きた男の皮膚によわく歯をたてた。乱れた息を吐きかけながら舌のすじでうなじの汗を舐めとってその匂いすべてを肺のなかに取り入れる。毎日ただしくまっすぐ帰ってくる土方の、まともな仕事をして、まともな疲れ方をして帰ってくる土方の、目に見えて溜まっていくそれがここに集結して血を脈打たせているのが、手の皮をとおして伝わってくる。吸いついている首筋の、その血管までもがどくどくと脈打つのに銀時の喉仏もふるえ、粘った唾液を飲みくだす。とまることなく腰を打ちつけては奥のほうで小刻みに蠢かし、土方という男のすべてをえぐる。これだけ奥ふかくまではいっていっても、わかることもなければ届くこともなく、進めば進むほど欠け落ちていく気がしていた。こんなところまできてまだ欠け落ちるものがあるのかと、ふたりぶんの体液を吸って色を変えていくシーツのうえで、うっすらと笑っている。うすいセロファンのようなものがいつもはりついているかんじがして、うまく息を吸えない。
「は、っ、……ッ、」
「う、あ、……ッむ、りじゃねえ……っ」
「……なに、言ってんのおまえ」
「むり、じゃ……ッね」
「……ッ、もっといけるって意味」
「んあッ、ああ、あ、あ……ッ」
これ以上は進めないというゆきどまりめがけて腰をうちつけ、溶けかかって境目がわからないそこにすべて注ぎいれてはまた動きはじめ、そうして自分とはべつの身体に縋るように。そのあいだじゅう土方のなかで明滅していたのは、はじめて身体を繋げた日のひかりの滲み方で、そこからつづいてきたいくつもの季節の灯火で、欠け落ちては接ぎとめ、接ぎとめては欠け落ちてきた日々で、いつか忘れられると思っていた十年前のあの言葉だった。今さら、重しのようにそれが繰り返し、繰り返し……。
どれだけ近くにいようと、埋められないものがある。どれだけ、あとから接ぎとめようとしても、欠け落ちたものは戻らない。十年も使って、辿り着いたのはそんな、そんなことで。身体にのこる傷痕からは、過去のにおいがした。その継ぎ目からは、アイツのにおいがした。
左眼を隠していたあの男は、十年前のあの部屋で、土方の知らないタバコを吸いながら。
「テメーにアレは無理だ」
そう云って、笑った。なみだを閉じこめたようなその瞳の揺れ方が、……おなじだった。
そのつづきの朝は麦茶のにおいからはじまって、窓からの陽射しから逃れるように寝返りを打った土方の足首が毛布からとびだす。夜明けちかくまでつづけられた行為の余波をひきずるのは土方だけで、となりに寝ていたはずの気配はそこになく、へこんだクッションに残るは銀糸のみだった。あたりを探って見つけだせたのはパンツだけ。他の衣服はどこかへ消えた。パンツ一丁の土方が、毛布から這いでてトイレへ向かう途中にかたちばかりの台所、そこで反射する銀髪のそばを通る。風が吹いているとおもったら、半分ほど開け放たれた玄関の扉をとめているのはジャンプの束、そこでぱらぱらめくれる再生紙。シンクを打つ水のきらめきが一瞬だけ土方の瞳を光らせて、そうしてトイレのドアを開けかけ、「あ」、と取っ手を握ったまま振りかえる。着る人間で、うそみたいにだらしない。
「おまえ、それ俺の」
「ん?あァ、俺のは昨日お前ので汚されたし」
「……他の、だせよ」
「ダンボール開けんのが面倒くせェ。布団もそろそろ買わねェと身体バッキバキだよ。あ、もうそろそろ乾いたころだから取り行ってくるわ」
土方の服を身にまとったまま銀時は、火をほっぽってサンダルをつっかけ出て行ってしまい、パンツ一丁のまま残された土方は、つよめの火でこぽこぽ鳴っているヤカンをぼんやりと見おろす。
……乾燥機のドラムから服をとりだしながら思案する、洗濯機の必要性について。コインランドリーから踏みだしたさきが鳩の群れだったらしく、ばさばさと飛び散る羽をぺらぺらのサンダルが避けていって、ひとけのない路地裏を帰る。アパートの階段をだらだらのぼってジャンプを跨ぎながら中へ身体をいれると、パンツ一丁の土方がまだコンロの前でぼんやりタバコを吸っていた。火がよわめになっているのに呆れる。そういう神経質のある土方に洗濯物を押しつけてから踏み入った部屋のにおいにはまだ馴染めない。へこみまくりのクッションにうつ伏せて寝転ぶ。その床に伸びた裸足を、土方が踵で踏みつけながら、「寝るまえに脱げ」、と服をひっぱる。それでも動こうとしない足をもちあげてスウェットをずりさげたらいっしょにパンツまでずりさがったり、シャツから腕を抜こうとしてターザンみたいになったりして、そのうち腰をひきよせられて「なァ、ちんこ舐めて」と耳元で囁かれたので土方はその乳首をおもいっきり抓ってやった。部屋のすみっこ、透明のゴミ袋のなかで皺くちゃになっている履歴書の、剥がれかけた土方の写真だけが、マジメだった。銀時がその嘘っぱちの経歴を読みあげたとき、「嘘ぐらい吐くだろ」と土方は目も合わさずに云った。そうやってきっと、互いへの嘘も増えていく。どんどん、どんどん、増えていく。
けっきょく十五分でまた身体を繋げて、息を乱しながらコンロの火をとめた銀時の目のさき、あふれた泡がぶくぶくと死んでいった。その湿度が、動けない土方のところにもながれてきて、眼球だけずらしたら、爪の欠け落ちた銀時の足のおやゆびがシンクの棚を蹴っているのが見える。
そのつづきの朝はきつすぎる柔軟剤の匂いからはじまって、窓からの陽射しから逃れるように寝返りを打った土方の足首が毛布からとびだす。夜明けちかくまでつづけられた行為の余波をひきずるのは土方だけで、となりに寝ていたはずの気配はおそらく今、洗濯機のまえにいて、「げっ量ミスった」とかなんとか呟いている。柔軟剤でくさいパンツを履いた土方が、毛布から這いでてトイレへ向かう途中にかたちばかりの台所、そこに置かれた洗濯機のまえで反射する銀髪のそばを通る。風が吹いているとおもったら、半分ほど開け放たれた玄関の扉をドアストッパーが支えている。洗濯機のなかの回転が一瞬だけ土方のひとみを濁らせて、そうしてトイレの取っ手を握ったまま振りかえる。
「……なんだその湿布」
「あ?……あァ、腰いってえんだよ。アレだなもう、三回までだな体力的に」
「言っとくが、こっちはお前のその十倍きつい」
「……もっと〜って散々ねだってきたのはおまえ、」
「ンなこと言ってねェ」
トイレのドアをつよめに閉めたらそこに吊ってあるカレンダーがすとんと落ちた。二ヶ月前からめくっていないそれを壁に刺した画びょうにひっかけながら、洗濯機の唸りをドア越しに聞いている。
そのつづきの朝はスポーツニュースを映す食卓で、「ここの帽子ってさァ、視力検査思いだすんだよな」、とパンにイチゴジャムを垂らしながら銀時がつぶやいて、「Cがだろ」と土方がゆで卵の殻を剥きながら答えた。この会話だってスポーツニュースが流れるたび繰り返されてきたもので、マヨネーズをぶっかけたゆで卵にかぶりつきながら適当に受け流す食卓も見慣れた朝だった。
……ベランダはからりと乾いていて物干し竿に溜まったホコリや雨痕が透けてみえるほど陽射しがきつい。じんわり熱をもっているそこに、部屋から引っぱってきたシーツを、ひきずらないように気をつけながら干していく。洗剤のにおいが鼻をかすめ、そこにはもう昨日の残り香はのこっていない。洗濯籠を抱えながら部屋とベランダの境目に腰をおろした銀時の瞳を、名前を思いだせない鳥が横切っていった。はためくシーツのはしっこが風に遊ばれているのを見ているあいだに、テーブルのうえの鍵(マヨネーズのストラップつき)をかすめとった土方の気配がうしろを通る。この部屋を出て、今日も土方は嘘の経歴で入った職場に出勤していく。だんだんと風でまるまっていくシーツ、どこかの子どもが、習いたてのピアノをおもちゃを鳴らすのとおなじ叩き方でド、レ、ミ、と弾いている。そうして光合成をしている銀髪と、洗いたてのシーツがなんでもないみたいに、おなじ風に遊ばれている。
そのつづきの朝は、生協の売り込みにまんまと引っかかった土方が、チラシの番号を書き写しながら機嫌の悪くないタバコの吸い方をしていた。その斜向かいでレシートの整理をしている銀時の呆れた眼差しが、休日モードの土方のひらいた襟をとらえて、また手元の数字へと戻る。
「一回だけ取ってくれ?お前、そんな常套文句にひっかかったの」
「引っかかってねェ、この限定のやつが食いたかっただけだ」
「あ?……ほたてマヨ味。って、おもいっくそ引っかかってんだろうが」
ほ、た、て、マ、ヨ、と鉛筆が記していく土方の、別段うまくもない筆跡。目線のさきで、「味」という字の、口へんだけ書いてとまっている鉛筆の芯。その筆圧でやぶけそうになっている紙をみて、そこではじめて空気の異変に気がついた。表情のない土方の黒目がとらえていたのは、レシートの束で、そこから角だけはみだした通帳だった。銀時の手がすっとそこへ伸びる。その動きを黒目で追いかけてから、「なんだそれ」と発す土方の、あくまでも平坦な問いかけ。
「べつに。通帳」
「なんのだよ」
「それ言う必要あんのか」
ぶれない銀時の目と、ぶれる土方の目が交錯した瞬間、セロファンで塞いでいたはずの網戸の穴から風が通り抜け、舞いあがったレシートが、ふたりのあいだをひらひら遮っていく。あらわになった通帳。「坂田銀時」名義のそれが、見慣れた共有の通帳と同じ柄をしていることに土方の瞳が揺らぐ。節制という言葉にのせられたふりをして、数字の減りが少ない通帳への疑念に蓋をしていた。今その、ずっとまともに動かなかった感情が軋みだす。銀髪にのった紙切れを指差しながら、
「レシート、そこにも」
「ん、……あァ、お前も肩んとこ」
云われて肩から取ったレシートに、ぐしゃりと皺が寄るモヤシ十九円。
「……ずっと、別にしてたのか」
ひとくちタバコを吸いこんだ。どうにか感情を剥きだしにしないように肺ふかくまで。あっさりと端的に返された肯定はつめたく土方を跳ね返し、どれだけなにを云っても絶対に届かないときの空気を纏っていた。それでも土方はタバコの染みわたった舌を動かさずにはいられなかった。「……なんで、」、そのあとがつづかない。そのかわりに土方の目のさきで、銀時の喉仏が滑らかに上下する。
「なんでってそれが普通だろ、俺の稼いだぶんは俺のモン、お前の稼いだぶんはお前のモン。生活費を折半にしてただけだ。なんか問題あんのか」
十年だ、と土方はおもって、タバコの灰を落とす。十年暮らしても届かないことだらけだと、タバコを銜えるのも忘れて奥歯を擦り合わせている。こんなとき土方の脳裏に蘇るのは何度も反芻したアイツの言葉で、耳底にいつまでもこびりついて離れないあの片目で、それに抗うように、無理じゃないと言い聞かせてきた。吸われないままのタバコから立ちのぼる煙は、だれかの墓の前で線香がわりにされていたタバコから立ちのぼるものと似ていた。あっというまに朽ちていくだけ。そうして土方が、うっすらとひらいたくちびるを震わしながら、ついにはその言葉を搾りだす。
「……他人だって言いてェのか」
風が通る。テーブルのした、ふたりの裸足をくすぐっていくレシートの波。
そのつづきの朝は、テーブルのうえ、食べかけの朝食から湯気はのぼりつづけ、冷め切るまであと三分といったところ。それをぼんやりと下から見あげる土方のかすんだ瞳がゆっくりと戻ってきて、そのまぶたに、うえから汗がぽたっとかかる。限界がちかくなるにつれ、床についた銀時の膝も擦れてあかくなっていった。ときどき土方が苦しそうに喉仏を上下させては嘔吐きそうになるのにもかまわず、根本まで差し入れたやつを幾度も往復させている男の、見おろす瞳はきつそうだった。
「ん、んぐ……っ、ふ」
馬乗りに疲れた足が滑ってさらに喉奥を突くかたちになって、またがられている土方の身体が跳ねた。ぬるぬると舌のうえを滑るものはさらに膨らんで抜き差しも性急になり、土方の目尻に影が差す。舌に滲んでくる先走りは飲みくだしても飲みくだしても喉にひっかかって、あぶくと化してそこを塞いでくる。ひゅ、と吸いこむと男のそれが上顎をこすっていって同時にびくんと跳ねたそのとき、部屋に鳴り響いたインターホンにピタリとまる律動。銀時の眼球がすっと玄関のほうへと流れた。そうしてすぐまた戻ってきた目が、なみだの浮いた土方の目とかち合ったその瞬間、きゅっと細まる。
「……ッく」
わずかに呻きながら吐きだされたものは銀時が寸前で身体をひいたので喉奥までは流れてこず、土方のくちびるを汚してそのまま首筋を伝っていく。離れていった気配がティッシュを二三枚とっているあいだに、再び鳴ったインターホンにさっさと後処理を済ませ、下着だけ履いた銀時が玄関へと遠ざかっていった。ひかりの射すフローリングを、その裸足の影が移動していく。天井をじっと見あげていた土方のうつろな瞳が、玄関先でなにかのやりとりをしているほうに移動して、ゆる、とよわまった。ひかりは痛いほどなのにどこかで曲がって、ここまでは届いてこない。もどってきたのは銀時につきまとう影ばかりで、顔のそばに落とされたゴミ袋のようなものに目を移した土方に、「ほら、ほたてマヨ味」、という声が降って落とされた。
そのつづきの朝はひとりで目覚め、帰ってきてるとおもって目を向けた先で揺れていたのは、あけっぱなしの窓辺で干していた土方のワイシャツだった。アイロンなんてかけたこともないから、目を凝らしてみれば細かいシワだらけの。びっちりと汗の掻いた身体からシャツを脱ぎ捨てる。朝食がわりにうまい棒を銜えた銀時は部屋を出てすぐ、耳のそばでバチっと音をたてた蛾の存在に一瞬だけ身体をびくつかせたりしながら、駅前のパチンコ屋まで行って新台の待機列に加わった。
「……土方、さん」
そのころ、土方は十年ぶりに山崎と再会していた。
急停止したシボレーから降りてきた男が山崎だと気づいたとき、変わらないその声で名前を呼ばれたとき、いっきに、かつていた場所まで引き戻された気がして瞬きも忘れた。その山崎のくちびるが微かにふるえたかと思うと、眼球がひかりを吸って波打ち、まなじりに赤が差す。
「……っアンタ、何を」
車が通る。コーヒー屋でモーニングを頼んでタバコを吸いながら土方は、まだ帰る気になれない精神をひたすらに抑えつづけ、ガラス越しに見える車の流れをじっと目にいれていた。置いてきたもののことは振り返らないようにしてきた。それは、あの街を出てからずっと。
無意識に握りしめたままだった、ぐしゃぐしゃの名刺に目を落とす。
……必要なら、どこへでも飛んでいくんで。
別れ際にそう云って、これを土方の手に握らせた山崎の瞳は濡れていた。土方があの街を出た理由も、今だれといるのかも、そしてもう二度と戻るつもりのないことも。それらすべてを見透かす山崎の眼差しを、土方は拒まなかった。二度目の、最後のつもりで。山崎の左手の薬指でひかるそれに、ずるくも安堵をおぼえながら。
今、その名刺にライターの火を翳そうとしている自分は、きっとろくな死に方をしないと思う。
そのつづきのつづきの朝は、見慣れたアパートの見慣れた部屋まで帰ってきて耳のそばでバチっと音をたてた蛾の存在に一瞬だけ身体をびくつかせながら、鍵をまわした。電気のいらない明るい部屋に目をやられながら靴を脱いで、室内へと足を進めた。四方八方に散らかっている衣服のうえを靴下で踏みつけていく。銀時は、窓のほうを向いて寝ていた。ホコリがひかりに透けて舞っているなかで、「朝帰りかよ」、慣れ親しんだ声を聞く。でもきっと、どれだけ慣れたつもりでも、いつも聞いていないかぎりは忘れてしまう。そういうものだとわかっているから、何度だって土方はここに帰る。
「飲み会に掴まって終電逃した、携帯も電池切れて、」、とべつに云うつもりもなかった言い訳を口にだした土方に、「お前は浮気の言い訳する亭主か」、と銀時が突っ込む。「ぎ、」、土方はそうこぼしかけ、口を噤んでから急に身体から力がぬけてそのとなりに寝っころがった。
「なんでこんな散らかってんだ」
「いやエネマグラ探してたら」
「はァ?!なんでンなもん、」
「お前が、俺の指のほうがい〜とか言うから蔵入りしたやつだよ。アレ売っちまおうかと」
「いつだれがそんなこと言った」
「ちんこの間違いだったか。まァそしたら別のもん出てきやがって」
「殺すぞ。はあ、なんだ別のもんって」
「高杉に借りてた金」
あまりになんでもないようにその名前をだしてきたことに土方はいっしゅん固まって、「……いくら」、同じくらいなんでもないように問いかえしながら、本当にそこにいるのかを感じるために、となりへ手を伸ばす。思ったよりもずっとちかくにその体温を見つけ、そっと小指の爪を撫でたら絡めとられた。今どんな顔をしているのかも、どんな想いでいるのかも、なにひとつたしかめることもできないで。
「百八円」
「は、なんだそれ……」
ここで笑うことが正しいことなのかどうかはわからない。それでも触れている互いの指先からその振動が伝わって、それは十年目にしてはじめて行き着いた、(……さみしい)、その感情だった。
またひとつ季節は欠け落ちて、土方の手のひらの火傷も、スーツのポケットにはいっていた誰かの名刺の燃えカスもうやむやになって、そういう生活の波は寄せたり引いたりしながら、ひたすら明日を運んでくる。寝起きの土方が喉が痛いといって冷蔵庫から牛乳をとりだすよこで、銀時が天ぷらをあげる。よこから伸びてきた手が、それをかすめとって齧りとったかと思うと、その熱さに身体を跳ねさす。風呂に身体を沈めているときにいきなり入ってきて、爪きりどこだ、と聞いてくる土方はそういう生活の物覚えがよくなかった。新聞紙を敷いたうえで爪を丁寧に切り落としてる土方に近づいていって押し倒した銀時の、濡れた髪から降り落ちるしずく。くちびるをこじあけられ熱のおびた舌で口のなかをまさぐられながらその銀髪に手を差し入れた。夏の終わりかけに玄関に座って食べたアイスはつめたいばかりで味がしない。溶けたアイスの伝う手首を、べろり舐めとる銀時の舌と、汗で蒸れた性器を擦りあげる熱の手のひらが土方の思考を奪う。匂いの篭もっていく玄関に、何処かからピアノの音が流れてきて、ちっとも上達しないその音階を耳にいれながら上り詰めていく。どこぞの屋台で買ってきた百円焼きにかぶりつく深夜は、ふたりとも歯を磨くのを忘れた。キスのあと、擦れるそれが気になって剥がれかけてた銀時のくちびるの皮をひっぱってちぎりとったら、予想を超えた血の量にティッシュの海で迎えた朝、「お前、俺になんの恨みがあって……」、そのカスカスのつぶやきが暫く土方のツボになったこと。職場の人間と連れ立って歩いているときに信号の向こうに銀髪を見つけたときが、死ぬほど心臓に悪い。なんでかタピオカジュースを手にもった銀時は赤信号のあいだずっと土方から目をそらさずに。太いストローのなかをいったりきたりするタピオカ。すれちがうとき交じり合った視線と、かすかに触れた肩のぬくもり。そんな銀髪が、半裸で横になりながらテレビのひかりを浴びているのを見て脱力する玄関。いつのまにか欠け落ちている茶碗のふちを見おろして、「まだいけんだろ」、と云った瞳がまたあの揺れ方をしたので、咄嗟に土方が取り出してきたのはセロファンテープだった。欠けた部分にセロファンを貼ることで、あやまって傷ついたりしないように。そんなバカみたいな方法があるか、と思いながら、こころの奥底でくりかえしていたのは。まだいける。……まだ、いける。そればかり反復する土方のまえで、今日も銀時が欠け落ちた茶碗で飯を掻きこんでいる。治りかけていたくちびるの皮がまた切れて、そこから血がにじんできたのを銀時は、土方からは見えぬように手の甲でぬぐった。
そうして日々は欠け落ちて、二度と戻らないことばかりのなかで互いの魂のひかりだけが。あの街から欠け落ち、世界から欠け落ちたふたりの十年が、生活の端々に、たゆたっていた。ときどき交錯するふたりの視線はいつでもかなしく、とくに銀時の瞳はなみだを閉じこめたみたいな揺れ方をよくした。「伸びたな」、ひとの陰毛をみつあみにして遊びながらふいにそう呟いたクソ天パのあたまを殴ると、「ちげーよ髪の毛」と黒髪をすくいとる、感情の滲まない眼差し。切ってやるよ。そうして窓際に敷いた新聞紙に、土方の黒髪がばさり落とされていった。耳のそばをかすめていくハサミの冷たさ、窓を染めていく夕焼け。もうすぐ土方とならんで二十九になる銀時が、ろくな死に方しねえぞお前、とつぶやいて、まっかに染まる部屋。「んなタバコすぱすぱ吸ってたら、てか前より本数増えてねェか」 冷たいハサミの先が、土方のうなじに当てられる。「このままいくと道連れだよ」、そう云って土方の髪の毛に指を差し入れ、ハサミを動かしては夕日色に染まった新聞紙に落としていく。その刃先があかく反射するそばで、土方のうすいくちびるが、そこにある空気を吸う。夕暮れのにおいを肺に溜めた。喉にはりついて苦しい、うすい何かを剥がすように。そうして押しだされた声は、かすかにふるえて、
「銀時」
ひたり。刃先がとまって呼吸もとまる。少しでも動いたら皮膚を裂かれてしまいそうで、いっそ、そうしてくれと土方は思うのだった。テメーと心中だけはごめんだ、とかるく笑うのと同じそのくちびるで、道連れにしてくれ、と何度もこぼしそうになって、そのたび、それをゆるさない眼差しに跳ねかえされてきた。こうして名前を呼ぶのだけで十年もかかって、うなじに当てられた刃先の冷たさにさえ怯えている。
ようやくのこと、ふせていた睫毛をすべらして、半開きの、あかい窓ガラスにうつりこむ自分たちをその目にとらえたとき、部屋に吹きながれてきた風で、銀色と黒色が同じ方向にながされる。あらわになったどちらの目元も、ガラス越しではぼやけていて、まるでそこになみだを浮かべているみたいに。新聞紙をすべっていく髪の毛が、ふたりのかかとをくすぐっていく。
「……どうした」
肩口に押しつけられた銀髪。それは電車に乗ってどこまでも欠け落ちていったあの日とおなじ痛みをつれてきて、土方はひそかに肺をふるわす。それが銀時のなかにも浸透していって、そういうものはどうしたって欠け落ちてくれない。何度も、何度も、本来いたひかりある場所へ土方を押し返そうとした銀時は、今はじめて自分の名を呼ぶ、その声が憎かった。十年前のあの日、ひとりで乗るはずだった電車に、迷うことなく乗りこんできた土方のことが、ほんとうはずっと、憎かった。
「眩し、んだよ……」
こんなに痛いのに手放せない。夕日、欠け落ちて。このまま道連れにできたら、どんなにいいか。
2015.06.05/セロファン