同居生活は、ちょうど一年。二度目の春が近付いてきた矢先、ちょうど潮時だなあと思っていたので後はどう切り出すかだった。別に付き合っているわけではなかったので、別れようと云うのは違う気がした。かといってセックスはしていたので、単純にばいばいと云うのも違う気がした。ただ潮時だと土方は思っていた。土方ではなく、坂田の方が。年が明けてから、坂田の眼が、常に別れを切り出そうと揺れているのがわかった。ああ、もう終わりか。と思って、でも云われる側に立つのはなんとなく癪だったので、こちらから云ってやろうと思っていたら、ずるずると数ヶ月過ぎてしまった。でも春を迎える前に。別れを告げる。それだけはぶれなかった。


 豆腐と酒だけ買い足した。豆腐はいちばん安いやつ。百五円。レジで精算するとき、可笑しな組み合わせだと思った。店員もそういう顔をしていた。スーパーを出ると生温い風。三月最後の週の土曜日だった。前髪切らなきゃな。視界を邪魔するので鬱陶しくて仕方ない。眼が乾燥している。アパートに戻ると、坂田がだらしのない格好でだらしのない顔をして部屋からのそのそと出てくるところだった。……今何時。五時だと云うと、腹減った俺ね鍋食いたい、と返してくる。同じことを思って冷蔵庫に唯一なかった豆腐を買ってきたので、少し、ぎょっとした。小さな鍋をコンロにセットしている間、坂田はソファに膝をあげて歯をしゃかしゃか磨いていた。歯磨き粉の白い泡が坂田の唇の左端から出ているのをちらと見た。チャンネルを何度も替えつつ坂田はテレビにぼうっと視線を向けている。……何?えろいって? 歯ブラシを銜えたまま坂田が横目でいやらしく笑った。あほか。さっさと野菜切れ。へいへい。嗽をし、シンクで吐き出している。坂田の喉がごろろろと鳴った。冷蔵庫を開けた。
 おい白菜ねえぞ。冷蔵庫に顔を突っ込んで何かを探していた坂田が云った。マジか間違えた。んじゃキャベツでいいや。キャベツ鍋ってことで。坂田の手に、まるまるとしたどでかいキャベツがのっている。いいんじゃねえの。適当に返事をしながら、コンタクトを指の腹でそうっと外しケースに沈める。保存液を流し込むと、薄い膜が回転した。暫く天井を向いて、眉間を揉み、眼球を休める。坂田がなにやら鼻歌交じりで上機嫌にキャベツを切り刻んでいる。耳を済ませていると、どうにもあほな替え歌が聞こえてきた。探し物は、からはじまる、あの曲の。首を天井に向けて、目を閉じたまま、あほで調子外れの歌を聞いていた。腹へったなあ。キャベツ鍋。
 皿を片付けてしまってから、缶ビールをちびちびとひとりで飲んでいた。珍しく坂田は、明日朝早いからと云って酒には手をつけなかった。せっかく買ってきてやったのに。こちらは椅子に、坂田はあいかわらずソファでだらしなく寝転がっていた。何缶か飲み干したところで、摘まみを足そうと立ちあがる。たしか冷蔵庫にチーズの詰め合わせがあった筈。しかしなかなか見つからず先程の坂田と同じように顔を冷蔵庫に突っ込んで、奥を漁っていると背後に立たれる気配がした。なんだよ。訝しげに振り返ったら、坂田の顔が間近に迫ってそのまま唇を押しつけられた。え。心臓がぐわんと揺れた。気がした。おい、胸を押し返したら手首を掴まれ唇を割って舌が潜りこんでくる。ちょ。冷蔵庫が開いたままだったので、背後に支えがなく、坂田の腕を掴んだ。冷気が背中に当たる。今までこういう空気に雪崩れ込むとき、坂田が素面だったことはなかった。酔って帰ってきたとき、一緒に明け方まで飲んでいたとき、そのままセックスに雪崩れ込むというのが常パターンだった。今日、坂田は一滴も飲んでいない筈。しかもあまりに突然すぎる。なんの前触れもなくされたことなんてなかったのに。脳がぶれる。脈もはねている。考える余地を与えられない。舌で乱暴になぞられて、肩が浮く。背筋をなぞりあげるようにシャツのなかで右手が這い動いていた。薄っすらと眼を開くと、坂田も眼を開けていた。その眼球を見た。低い声で名を呼ばれた。何もわからなくなった。わからなくなって、眼を閉じた。ああ何処かで何かが鳴っている。ぴー、ぴー、ぴー。あ、そうだ、冷蔵庫を開けっ放しだった。

 こんなセックスは初めてだった。たしかに意識があって、眼前で坂田が動いているのがわかるのに、夢をみていた。坂田と自分のあいだに、その夢の映像があった。水槽だ。とてつもなく、でかい水槽。表面は限りなく透明なのに、中が濁っている。魚たちは喘いでいる。(それに合わせるようにして自分も声を出していた。)坂田と自分のあいだにもうひとりの自分があらわれて、これまた巨大なブラシを手に持って、水槽と向かい合っていた。この巨大な水槽を、ひとりで隅々まで磨かなくてはならない。それは絶望的だった。終わりが見えなかった。溺れているような心持で、水槽に手を伸ばしたら、坂田の頬に辿り着いた。坂田の眼は死んでいた。それは、ひとつも気持ちのはいっていない目だった。それがかえって、坂田のすべてを物語っていた。すべて、わかった気がした。水槽のガラス。が俺達のあいだには、ずっとあったんだ。互いに焦がれようと、このガラスの向こうでは生きていけない。呼吸もできずに無力に死んでいく。それでも坂田の頬に触れた手は熱かった。坂田が、笑った。

 早朝、ベランダでタバコを吸っている。太陽は昇っていたが、妙に霧っぽかった。ぼやけた視界の隙間から伸びてくる、無数の光が眼球を刺激した。じっくりと一本だけを味わい、口の中で煙を溜めてから吐き出す。それを何度か繰り返し、やがて吸い終えてしまうと、吸殻を缶のなかにいれてから振り返った。窓の向こうで、坂田が立っていた。いつ起きたのか。いつから其処にいたのか。ガラスを挟んで坂田と眼が合う。まるで水槽。レースのカーテンがゆらゆらと揺れていた。背後で燃える太陽が、窓ガラスに映りこんでいる。三月の空も。その向こうで、坂田がこちらを見ていた。カーテンが揺れていたのは、窓が少し開いていたからだった。そこに指を掛け、坂田がスライドさせる。朝から不健康ですこと。坂田が薄く笑った。おおきな欠伸をひとつこぼし、此方を通り越して遠くを見ていた。坂田の眼が、遠くを見ていた。その眼は、春を映していた。坂田の眼に、春を見た。最後に、えっろいもの見れてよかったよかった。その言葉で台無し。舌打ちし、坂田の横を通り過ぎた。八時には出て行くから。坂田が云った。返事はしなかった。坂田が荷造りをしている間、昨日のまま散らかっている缶や食いかけのものを片付けた。ふと視界に入ったのは、排水溝に詰まったキャベツの芯。坂田の背中。あほな鼻歌。探し物は、からはじまる、あの。芯を取り出し、ゴミ受けに突っ込む。こうして、一年間の同居生活は終わった。


 秋になった。ぶらりと入った映画館で、たまたま視界に飛び込んできた映画のタイトルに目を奪われた。その映画館でバイトをはじめて一ヶ月。その映画の公開がそろそろ終了するという時期になって、坂田が客としてやってきた。既に上映時間は過ぎていた。色々と油断していたので、何も言葉が出てこなかった。なにしろあれから一度も会っていなかった。何処で何をしているのかもさっぱり知らなかった。無表情のまま坂田は此方に歩いてきて、映画のチケットを出した。反射的に、そのチケットを受け取る。なにしてんのお前。え、バイト。坂田があまりに普通に問うてくるので、此方も普通に返した。ここで? 坂田が差し出したチケットを見おろす。あの映画のタイトル。坂田もそれを見ている気がし、手が震える。平静を装って、半券を切り離したら失敗した。ななめに破れた。坂田は何も云わず、それを受け取った。突っ込めよ、と内心思った。でも、もう終わったのだと思い直した。坂田の背中がシアター内に入っていくのを見届けてから、近くにいた正社員に、バイトを辞めたいと告げた。予想通り、おもいっきり変な顔をされた。その場で名札を外し、なかば強引に受け取ってもらってから、映画のチケットを購入した。その勢いのままシアター内に入り、いちばん後ろの指定席に腰をおろす。ちょうど斜め前に、坂田がいた。暗闇でも、あの髪の色は際立って目に飛び込んでくる。坂田から視線を逸らし、スクリーンに向き直る。スクリーンのなかで男が大量のキャベツを切り刻んでいた。そして、それを鍋にぼとぼとと流し込んでいる。キャベツ以外に具はない。キャベツ以外は受け付けなくなった男が、毎日そればかりを食べ続け、仕舞いにはキャベツを見ただけで欲情し、精神崩壊していく。という酷い内容だった。なんじゃこりゃ。それはもう。くそつまらない内容。それなのに、眼には涙があふれた。どうしようもなく、やり直したかった。最初から、やり直したかった。ぼやけた視界端で、坂田が立ちあがるのが見えた。闇の中、すぐそばを通り過ぎていった。鼻歌。探し物、からはじまる、あの。はっと振り返る。ちょうど坂田が扉を押しているところだった。その隙間から光が漏れる。出て行く横顔に眼を凝らす。それが、坂田を見た最後になった。

2012.10.18 (ろやさんへ)/キャベツ鍋