長谷川の箸は、こちらが勧めてやらぬと動かない。摘み物には手を出さず、ちびちびと酒を嘗めているばかりである。そうなると片付けられない皿がカウンター上を埋めていく。どの皿も長谷川の分だけ残されている。長谷川はいつもそうだった。此処のこれが美味いんだ、と人に勧めてばかりで自身は少し食べると箸を置いてしまう。おい、これ食え。仕方なく坂田が言うと、おおそうだったとそこで漸く箸が動く。美味い、と長谷川は呟いて、また箸を置いてしまうのだった。
 飲み終りの頃合だった。長谷川が懐から煙草を取り出して、吸い出した。なんだかなあ銀さん。坂田が横目で見やると、長谷川は薄く笑んでいる。そのサングラスの内が覗いた。目の淵が赤くなっている。なんだか俺は遠くへ行きたいよ。は、と坂田が笑う。まあた現実逃避か。長谷川が煙を吸い込む。燃えた先端がぼとりと落ちていった。少しだけ遠くへ行きたい。そう、こぼした。


 翌日の早朝。長谷川はあるだけの金を掻き集めて、始発列車に乗り込んだ。何も考えず乗り込んだので、何処に行き着くかはわからなかった。金が底をつくまで乗り継いでいくと決めた。平日の始発列車の中は長谷川ひとりきりで、静まり返っている。列車が動き出すのに合わせて朝の光が強まっていった。
列車内。長谷川はゴミ捨て場から拾ってきた文庫本を開く。何かの詩集だった。詩人たちの言葉。意味もなくそれらを流し読みした。所々に鉛筆で書かれた薄い線が透けている。大事にされていた本なのだろうと思った。それが何故捨てられたのだろうか。そうしたとりとめもないことを長谷川は考え続ける。
 ぶつぶつと長谷川が詩を音読していると、停車駅でひとりの老人が乗ってきた。杖を突き、腰を曲げ、倒れこむように座り込む。斜め前の席だった。長谷川がちらと見ると、老人はこちらを見つめていた。暑いねえ。はあ、そうだな。気のない返事をして長谷川は本に視線を戻す。がたごとと列車が滑っていく。
 小銭入れの中身を数え、長谷川は立ち上がった。何処で降りようかと路線図を見上げる。駅名を見てもぴんとこないので、老人に話し掛けた。あんた何処で降りるんだ。老人は目を閉じたまま、さあ何処だろうねえと答えた。あてにならない返答に、長谷川は老人から目を逸らす。車窓の外は随分と眩しかった。遠くに山が連なっているのが見える。暫くその地続きの景色を眺めた。
 眺めていると、ふいに何かが視界に入った。長谷川は思わず其れを目で追う。猫の死体だった。おそらく電車に轢かれたであろう、猫の死体だった。横向きに倒れ、ぐしゃぐしゃになっていた。目は虚ろに開かれたままであったと思う。その一瞬の残像が瞼裏にこびりつき、長谷川は気分が悪くなった。次の駅で降りようとポケットに入れてあった切符を握り締める。汗でそれが曲がりくねった。
 列車が止まる。長谷川は降りる前に老人を振り返った。目を閉じている。じゃあな。長谷川は電車から降りた。さようなら、と背後で老人の声がした。そのとき長谷川は詩集を車内に置き忘れたことに気付いたが列車の扉は閉められてしまった。動き出した列車の中に老人の姿はもう見当たらなかった。


 改札を出ると、其処は静まりかえっていた。人気も無く、車もあまり通らない。改札横に看板が掲げられていたので見ると、この先に神社ありと書かれている。其処に行くしかないようだった。
 長谷川は坂道を上っていく。
 神社も随分と寂れていて、至る箇所が剥げ落ちている。小さな稲荷と、寂れた賽銭箱があるだけだった。長谷川は既に神の存在を信じなくなっていたので、煙草を吸ってしまったら何をするでもなく引き返した。
 また坂道を下る。その途中、殆どの店のシャッターが閉まっている中で、ひとつだけ開いている店を見つけた。漬物屋。中途半端に開けられたシャッターを潜り、長谷川は其処に入る。いらっしゃい、とやる気のない声。長谷川は其処で胡瓜の味噌漬と、茄子のピリカラ漬と、赤かぶらを買い込んで店を出た。
 駅に戻り、残っている金で帰りの電車賃を買う。無駄な逃避の終りである。はは、と引き攣った笑みを残し長谷川は改札に切符を通そうとした。そのとき公衆電話が目に入ったので、ふと掛けてみようという気になった。 残る金は三十円。長谷川は十円玉を入れて、ダイヤルを押した。数回コール音が鳴った後、常のように嗄れたお登勢の声。取り次いでもらい、数分が経った。待っている間に十円が落ちたのでまた入れる。もしもし万事屋ですう。坂田の浮いた声に長谷川は苦笑した。悪いな、俺だよ。なんだあんたかよ。仕事じゃないじゃねえかババァ、うるせえ電話貸してるだけ有り難いと思いな、とぎゃあぎゃあと騒がしい。で、なんだ。またこちらに坂田の声が戻ったので、長谷川はああと呟く。昨日奢ってもらったお礼に土産買ったんで持っていくよ。土産ぇ? ああ漬物をな。 あんた今どこなの。坂田の問いに、駅を見廻してみた。駅名を見たが、読み方がわからなかった。さあ何処だろう、と長谷川は言った。言いながら、先程の老人と同じような言い方だと思った。おいおい頭大丈夫か?地獄にいすぎてとうとうおかしくなりやがったか、と坂田が捲し立てている。また十円が落ちた。最後の十円を入れながら長谷川は慌てて言う。地獄じゃない。自分でも予想外のことを口走る。地獄じゃないさ、銀さん、俺ァあんたに会えてよかったよ。
 言ってから、首の裏が熱くなる。なにを言っているのだと思った。沈黙が続く。坂田が呆気に取られているのがわかった。居た堪れなくなり長谷川は、じゃあと電話を切ろうとした。……長谷川さん。そのとき坂田の低い声がする。長谷川はもう一度受話器を握り締めた。……あんたも一緒に食えよ。え? 漬物、ひとりだと味気ないだろ。ああうん。そこで少し坂田が息を吸い込んだようだった。……待ってるよ。
 そのとき最後の十円が落ちた。ぷう、ぷう、という音が余韻として残る。長谷川は受話器を置いた。汗が手の甲にこぼれ落ちた。漬物の入った袋を持ち直し、顔を上げる。視界に眩しいものがあった。
 長谷川は切符を手に改札に入って行った。

2010.06.27/公衆電話より