いつも原チャリで走る町角が、知らない光の散り方をした。
 どどどと傾く人間たちと引っ張られた吊革に、いらない筋肉がはる。原チャリだと肌をかすめていくものすべて生身に響く。道なりに進むあの低い視点がいい。現在バスに揺られてグロッキー気味の頭はただそれを恋しがっている。ネオンの雨が窓を流れた。汚い雨だ。昼間より救えない感じがする。ポケットの中の小銭を擦った。ぎりぎりバス代に足りる。次だ次。降車ボタンを押しかけた指の手前でパッと赤になる。先に押された。爪を内側から灯す赤いランプをじっと見る。すっと降ろして、横目を動かす。斜め後ろ、ちょうど後輪の上にあたる座席に、深く沈む誰か。椅子が高く盛り上がったそこは、よく揺れる。ガクガクとぶれる黒い頭を目にした時点で、誰だとわかって、そちらに向いた意識が頭上の吊革を捩じった。俯いていたそいつの頭が今度は背凭れで跳ね、力無く窓に傾く。バカみたいにぽっかり開いた口の、その露骨な空洞に吸い寄せられる。常時は大体タバコを咥えっぱなしのそこからツウと垂れるヨダレのすじに目が離せない。
 そのとき背後でプシューと鳴った。開くドアの風に振り返る。
 確かにさっきランプはついた。厄介にも、アレと帰る町が同じだと知っている。押してすぐ爆睡?どうでもいい。どっちにしろアレは、殴っても覚めそうにないツラだった。捨て置いて自分は、さっさと降りればいい。「降りる方いらっしゃいませんか?」運転手の呼びかけに、いますいます今降ります。そう回しかけた舌の奥に、溜まっていくツバの濁音。再度、肩ごしに振り返る。きったねえヨダレ。一体何日寝ずに過ごせば、目の下のクマはああも濃くなるのか。時々泣きたそうに痙攣するまぶたの奥で、どんな悪夢をみていようが。「俺が知るか」ぼそり呟いて背を向ける。


 んぐぁ。
 空気を吸い損ねて唐突に目を覚ました土方は、ぼけっと窓の外を見た。バスに揺られていると気づくのに三秒、とうに寝過ごしたと気づくのに二秒、合計五秒の最悪の寝覚めだった。迎えはいいと通話を切った直後の、目の前で停車したバスに吸い寄せられた。ステップを踏みしめて上がる光の粒が、なぜか自分を見て席を譲る制服のスカートが、次で降りると押したボタンの感触が、なにもかも布団と錯覚させてしまうぐらいの寝不足だった。爪の先から泥になって思考はあっというまに崩れ落ちた。夢の中の自分はヘドロだった。悪夢には慣れている。口から垂れたヨダレをぬぐい、何駅過ぎたかわからない田んぼの風景を目に走らせる。他には何もない。こんな場所で降りて、帰るあてもない。そんなことは承知のうえで土方は降車ボタンに手を伸ばす。身を捩り、押し込んだ爪が赤く灯る。そしてそのままの姿勢で、目を見開いた。すぐ真後ろの座席に深く沈む誰か。ガクガクとぶれる白い頭を目にした時点で、誰だとわかって、そちらに捩った首が筋を痛めそうだった。「万事屋?」ぽつんと出た声は嗄れて、意味をなさない。どうしてこいつがここにいる?おい…肩を揺すられるままにバウンドする頭。口端からツウと垂れたヨダレのすじに目が離せない。喧嘩の距離と大差ないにも関わらず、見ればみるほどこんな顔だったか?という気になる。アホみたいに開いた口を閉じさせようと下がった顎に手をかけたところで唐突に目を覚まされた。びくっと引いた手を、寝起きの条件反射かなにか知らないが掴まれる。限りなく薄目でこちらを見て、そこから窓にゆっくりとずれ、あー、と瞬いた。
「寝過ごした・・・」
 そのとき背後でプシューと鳴った。開くドアの風に振り返る。
 ぱ、と離された手首に重力が襲う。降りなければ。席を立つ。どうするのかと思いきや、同じく立ちあがり、ふらふらついてくる。
「なァ、バス代貸してくんない、」
 そう言ってポケットから出てきた手にある小銭は、寝過ごしさえなければ足りていた。後で返せよ。運賃箱にバラバラ落としてから降りるステップ、「おい、こっから右?左?」「知るか」という声をそこに残し、バスは走り去った。

2019.03.21/バス賃