お盆を少し過ぎた八月末の猛暑、姉弟は父の墓前にいた。油蝉やら蜩やらツクツクボウシやらが混ざる発狂したような鳴き声の中、姉は涼しげに墓前を見おろしていたがその襟足は汗で滑っている。暑かったでしょう、と墓に語りかけ彼女は桶と柄杓を取りに行く。その後姿を新八は見つめながら、墓石に触れてみる。熱を吸い込んだその石が手の平を焼いた。眼鏡の外側で陽炎が揺れている。長襦袢が汗を吸い込み重みを増したようだった。姉が水を汲んだ桶を軽々と置く。そのとき溢れた水が地面を濡らし、せかせかと動き回っている蟻を溺れさした。新八は柄杓で水を掬い、墓に掛けてゆく。酷く喉が渇いていた。墓の周囲に蔓延る雑草を抜いている姉の着物裾が土で汚れた。太陽がちょうど真上に来ている。黒い斑点が視界の隅にちらつく。枯れた花を抜き取り、持参した仏花を挿す。紫の桔梗がもたれ梃子摺った。溢れ出す花の香りに吸い寄せられたのか一羽の蝶が舞っている。汗が流れ落ちていく。蝋燭にマッチで点火し、線香を其処に翳す。中々ついてくれない。眩暈を感じた。それに気付いた姉が手で囲いをした。その中で炎が燻るのが見える。手で扇ぎ炎を消すと、細長い煙がくねった。線香立てに供え、墓を見つめた。姉も同じように見つめた。手を合わす。新八は、父上、とだけ脳内でこぼした。その後の言葉が続かなかった。父の最期の言葉が再生される。きっと死ぬまで壊れた蓄音機のように脳内で繰り返される言葉なのだと思った。薄く目を開け、横目で隣の姉を窺う。姉はきつく目を閉じ、未だ手を合わしていた。その唇が時折震える。新八は再び目を閉じた。太陽が瞼裏を橙に染めている。
 石畳の階段を降りたところで、新ちゃん、と姉は呼び止めた。わたし寄るところあるから先帰ってて。姉がこう切り出すのは毎年のことだったので新八は頷き、姉とは別の道を歩き出した。草履から熱が這い上がってくるため自然と早歩きになる。不意に振り向いたときには姉の姿はもう見当たらなかった。


 新八は全ての皿を洗い終えると手を拭き、ソファで寝そべっている神楽を揺すった。微動だにしない神楽の前髪は額に張り付き、白い腹が顕わになっている。うう、とその口元から声が漏れた。これは起きそうにないと思い、再び転がしておく。後で運んであげてくださいね。ジャンプを読み耽っている銀時に言う。ああ、と気のない返事。それと銀さん、明日墓参りに行くので来るのは夕方になると思います。少し間があった後、再び相槌が返される。溜息を吐いてから、部屋を出て行こうとしたところでふと思い出し振り返った。明日の夜、何食べたいですか。冷しゃぶ、とこれにはすぐ返答がある。あと素麺、冷奴。はいはい暑いですもんねえと新八は苦笑してから扉を横にずらした。気ぃつけて行けよ。背中に銀時の声が掛かる。はい、と新八は笑う。扉を閉めるとき、部屋の隅の扇風機が静かに銀髪を靡かせているのが見えた。
 言われた通り、冷しゃぶ用の豚肉と素麺と豆腐をカートに入れ、それからサラダもつくろうとトマトとレタスも手に取った。外の熱気に比べ、ひやりとした店内は瞬時に汗を乾かしてしまった。並べられた食品の周囲に白い冷気が散っている。最後に酢昆布を入れてから、値段の計算をしつつレジに向かう。魚売場の前を通るとき、その蒸せた匂いが鼻を刺激した。
 自動ドアが開いた瞬間、光線が肌を焼いた。落ちつつある太陽が眼前に迫っていた。袋を持ち直し、バス停に向かう。新八の影が長く路程に伸びている。汗で眼鏡が何度もずれるがそれに構うことなく歩いた。バス停に着くと、ちょうどバスが来た。日傘を閉じた老婆がバスの段差を一段一段ゆっくりと這い上がる。その老婆の背中を支えるようにしてバスに乗り込んだ。一番後ろの席に座り込み、背に凭れる。バスが静かに発車する。がたがたと車内が揺れる。背凭れが熱くなっていた。太陽は何もかもを平等に焼いていくのだ。
 不意に痒みを感じ新八は背中を丸めた。袴を持ち上げ見ると、足首に蚊に噛まれた痕があった。其処を掻き毟れば白い爪痕が線となって走った。視線の先では踝の内側が脈打っている。気持ちの悪いことだと思った。帰ったら先にサラダをつくり冷蔵庫で冷やさねばなあと考えている。顔を上げると江戸の煌きが視界に飛び込んできた。バスを通して混沌と江戸の光が新八を刺す。信号が赤に変わった。バスが徐々にブレーキを掛けて止まる。エンジン音のみが鳴り響いている車内。窓の外を無意識に眺めていると、見慣れた銀髪が視界に入った。銀時の乗る原付が、ちょうど新八の乗るバスの斜め前に止まっていた。袖の捲りあげられた銀時の腕が剥き出しになっている。その腕を走る血管の浮き彫りまで新八にははっきりと見えた。眼鏡と窓が同時に曇る。信号が青になり、原付もバスも動き出した。バスが銀時の乗る原付を追い越していく。そのとき、銀時と目が合った。銀時の目が新八の目を捉え、そして一瞬で通り過ぎていってしまう。新八は思わず立ち上がり、降ろしてくれと喚きそうになった。しかし想像虚しく、バスは走り続けている。窓際に座る新八の瞳が橙に染まる。夕焼けが江戸を赤く染めていた。ぐうと焦燥に駆られる。あの原付より先に帰らなければいけないという気がしている。

2010.08.27/動脈と夕焼け