失神していた土方が覚醒すると、傍らに無心に玉葱を微塵切りにしている銀八がいる。そのどこか懐かしい、朝がはじまる音で絶頂から降りてきた土方の目は、生卵を溶いたみたいに、ぬかるんだ。同じ目線上に、食パンの袋を留めるアレが落ちていた。それを踏みつけて、土方をまたぐ足がある。一瞬見えた足の裏。土方は寝返りをうち、間近に迫った脛にそよぐ毛を辿る。その持ち主である顔を、見上げた。いつでもそこにいて、いつだってここにいない銀八の乾いた目はどの瞬間もかなしく土方の日々を焼く。
「あ。起きた?」
土方の視線に気づいて、こちらに向く眼は、犬・猫を見下ろす温度に似ている。いつか自分を置いていくものに対しての、尊さと覚悟が入り混じった目。銀八の右手に握られた包丁の刃先にきらめく玉葱のカスが眩しい。つん、と土方の視界は沁みた。
「お望みの、イキ地獄の感想は」
「…………まあまあ」
「……。」
ちらと横目に見た土方の目にうっすら張る膜を、銀八はシャボン玉みたいだなと思う。遅かれ早かれ、割れるしかない。まな板の上、新たな球体を寝かせて細かく切り込みを入れていく。切り刻む銀八は乾いたままなのに、床にいる土方の眼球は決壊した。
薄い膜が破けてボロボロ水がこぼれだした。頬を伝っていくそれは生理的で、一切の情は含まれていない。台所で事をはじめて、いつも以上に感じた声を漏らしながら、いき続けていた土方に、銀八は無体な仕打ちを繰り返した。なにをしてもその間の土方に、伝う涙など見た事がない。
それが、玉ねぎでこうもたやすく垂れ流す。
壊れた蛇口みたいに、とめどない。
とまらない、包丁の上下運動。
それにまぎれて届く、土方の鼻声。
「結婚する」
ザクザクザクザクザクザクザクザク……
「へえ。誰と」
「先生」
ざくりといった。指の表皮を削いだ音だった。途端に噴きこぼれてくる鮮血をどうにかするのも忘れてただ抑えこんだまま土方のほうを見た。水の膜をはった瞳でつらぬかれ、捕らえられる前に直視を避けた。床に落ちている、食パンの袋を留めるアレに意識をそそぐ。いつもの土方の病気だと銀八はわかった。正常なら考えられない今みたいなことを口走ったり、一晩中、顔を撫でまわされたこともある。そしてそれらすべて、土方は覚えてやしない。覚めると、なかったことになる。そんな土方が時々ふいに教卓を見あげてくる目を銀八は思う。
たぶん、一生思う。
あとから遅れてきた痛みが指先を心臓にする。己が打つ脈を、嫌でも知る。
「俺と結婚しろ」
園児が未来の結婚の約束をとりつけるみたいな、指の差し出し方だった。思わず出しそうになる指をさらに抑え込み銀八は、いや今、手離せねえからマジで指切り状態なんだよ・・と血まみれの指を見せつけて笑った。視界の端で、土方の気配がかなしい。じゃあ手はいいと呟いて、足に触れてくる土方。足の小指をさも人生の約束のように絡めとってくる土方は、セックスよりずっと震えていた。
高校生で、今しかない。
三年分の短い季節で、日々移り変わっていく土方は銀八には一瞬だった。
すべて覚めたあとで、銀八は、彼の青い春になる。
銀八は足の指を見た。そこに嵌められていたのは、食パンの袋を留めるアレだった。
2018.01.25/食パンの袋を留めるアレ