バーさんの銀歯がぎらりと反射するタバコ屋で小銭を掻き分けていた土方が、「おい十円」と振り返ったそこには誰もいなかった。角のポストを曲がっていった子どもの黄色いシャツを瞳で追ってから、抜きとった千円札と引き換えにいつもの銘柄と釣銭を受けとって、膨らんだ財布をポケットに捻じこむ。その場でハコの封をやぶる。裂いたビニールが爪先に纏わりつく気持ち悪さのすぐそばで、思いだしたように悪意なく風鈴が揺れる。そのとき土方の靴先が蹴ったのは何も埋められていない空っぽの植木鉢だったから、住処をずらされたことでぞろりと這いでてきたアリたちの行く手を空けようと片足を浮かす。
「ツレなら、そこのアクアショップに入ってったよ」
 聞いてもいないことを教えてくれたタバコ屋のバーさんの銀歯がまたもや反射する。夏の終わりかけだった。皺のひとつひとつに浮かぶ汗の玉がなぜ流れ落ちないのか不思議に思いながらタバコを咥えた。「あ、」 うっかり地につけてしまった片足を浮かすと何匹かのアリがこけていた。裏返した靴のうらにチューインガムがひっついているのが、ひどく余計だ。
 ガムをアスファルトに擦りつけるようにしてタバコ屋の影から一歩踏みだしたそこは、ねこも歩いていられないほどの灼熱である。さすがの土方も手首のボタンをゆるめて袖をたくしあげ、いまだ剥がれ落ちないガムのねばつきを靴底にかんじながら手前の店から順に覗いていく。タンクトップで団扇を揺らす中年の汗だくの肌や、無人なのにテレビだけがうるさい駄菓子屋など。「……どこだよ」、むくり膨れあがった苛立ちからガムつきの靴底を電柱に擦りつけた土方のそば、雀たちが跳ねる。道端にガムを吐きだす人種すべて撲滅してやるなどと思っていた土方の荒んだ瞳が、そのアクアショップを見つけたのは不意打ちだった。電柱と雀と土方などを反射する、ガラスがあった。土方の肌身をたゆたうように薄ぼんやりと透く、水色のガラスに土方は近づいていく。引き戸にゆびを掛けた。ずらしていく土方の両眼に迫るは水槽。
 敷居を跨いだ土方の靴は何処にも向かわずジっとそこにとどまって青白いひかりを浴びていた。水槽の向こうに天パすなわち坂田を見つけたらなにもかもだるくなってしゃがみこんだら動けなくなって、そうしてレジのほうから控えめに目線を寄越してくる店員の髪型がコーンロウだというどうでもいいことに気づいたりした。ほんとうに、どうでもいい。涼めるどころか土方の肌はねっとり濡れはじめている。つるりとした床を膝のあいだから見おろしながら、女と行った水族館で「うまそうだ」とつぶやいて笑われたことを思いだした。
 今すこしずつ近づいてくる足音が坂田のものだとわかっているから、こうした回想はまた過去にもどっていく。膝のあいだから顔をあげた土方は、水槽をとおして男の死んだ魚のような目を見つける。わかっていても力がぬけた。「顔色わる」と云われたことに「水槽のせいだろ」と返す数秒のやりとりにも力がぬけた。つぎに坂田が放ったことばが「この魚うまそうだな」だったため、どれだけそれがバカに聞こえるかわかったからもう二度と口には出すまいと誓う。口には出さないが考えていることは似かよっていて、たぶん今日これから食べるものだって。あいだを横切っていく魚を、ふたりぶんの瞳が追いかける。コーンロウな店員には聞かれないほどの小声で会話は続く。
「微妙なつめたさ」
「でけーな、この水槽」
「お前の体温こんぐらい」
「はァ?死んじまうわ」
「とか、はじめ想像してたんだけど」
 水槽に吸いついてる坂田の手のひらがこちらに突き抜けてくるかのような錯覚を覚え、触れられてもいないのに坂田の体温が水を介して流れこんでくるみたいでツラい。はじめて体温を分けたあのときから。水槽にのこったふたりぶんの指紋が明日には消されてしまうみたいに、この情緒だって流されていく。
「触ってみたら、普通にぬくかったな……」
 云いながらガラスをずっていく坂田の手のひら、そのあとから見えた水槽越しのさみしい瞳は、はじめて体温を分けたあのときと同じで、すこし泣きたくなった。

2015.01.20/そこのアクアショップで