とある大学のキャンパス。春を無駄に潰す高杉と土方は猛獣の檻のような喫煙所に篭っていた。朝っぱらから喫煙に耽る彼らの檻は、他の者にとっては素通りされるだけのものだった。
ひとつしかないスタンド灰皿を間に挟み、彼らは立っていた。壁中隙間なく貼られた有害物質、灰は真っ黒、一本につき命が五分縮む、の張り紙に囲まれながら、自らの息で短くなっていく煙草を深く味わった。
「お前がいなかったら貸切だ」
「残念だったな」
これだけ狭い空間で一体何を見たらそうなるのか高杉の眼差しは遠かった。常にここにいない。同じ場所にいる気がしない。土方は時々、宇宙に話しかけているような感覚に陥った。返ってくる光が微かしかない星。
ふいに振動音がして反射的に確かめたスマホは暗く、土方は高杉の方を見た。高杉の、煙草を離さない手が液晶に触れる。その指の影になって見えない相手の名前を土方は女だと思った。密かに横目で追った。画面を滑っていた高杉の指の影がふっと浮く。その瞬間、土方はうつけたような顔になった。女じゃない。そこに滲んで見えた名は、「銀八?」
高杉の、振れた煙草から灰が降る。
土方の中でそれが、最後に見た校門の景色に重なった。それは銀八が担任から元担任になる瞬間の校門だった。ここからは互いの生死すら知らない場所だ。これで見納めになるかもしれない白衣についた灰が風に散り、こちらの制服を掠めていった。校舎を背負って佇む銀髪の、見送る影が面影となって、青臭くこみあげた。
「あの銀八?」
生きてんのか。冗談抜きにそう漏れた。銀八とは、常に明日終わりそうな男だったから。漏れた声は掠れていた。かすれるほどの面影に過ぎなかった。そんなものでも高杉は拾ったようで、灰皿に吸殻を捩じ込みながら「見たいか?」と言った。
元担任の消息を、そんなペット感覚で。思わずつっこみかけた土方を置いて、喫煙所を出ていく高杉が陽射しに潰れる。それを呆けた顔で見てから、土方は今さら思った。
高杉と、銀八?
結局、あとをついていった土方は裏門を出てすぐの牛丼屋で高杉と並んで飯を掻き込んでいた。高杉は牛丼ではなく鯖みそだった。ほぐした鯖から白米に染み出た味噌の色。いや牛丼じゃねーのかよ。と心中でつっこんだ土方は別売のマヨネーズを牛丼に絞りだす。牛が沈んで見えなくなったマヨネーズの沼に高杉が言った。「去年行った遺跡がそんな色だった」
店も道もバスもスカスカだった。大学の春が異常に長いだけで、世の中は休みではないのだ。今頃、高校は何限目あたりか。そう遠くないはずの時間割をもう思い出せない。その頃を思えば思うほど、土方は高杉と同じバスに揺られる今がピンと来なかった。十代から地続きのはずの今が何故か遠い。いつも見ているものとは逆に流れ去る空。けだるく眩しい光。いつまでも着いてほしくないような、着いたら終わってしまうような、そういう光。
欠けていく陽の窓に、あの頃の廊下に射す陽を土方は思う。誰にも告げず早引きしようとした高杉を、銀八の声が呼びとめた。土方はそれを教室から見た。教室の喧騒とは切り離された、やつらだけの廊下を。やつらを消し去るように射す、すりきれそうな陽の痛みを。
高杉がバスを降りた。我に返った土方もギリギリ降りた。高杉についでバスステップを降りたとき、土方は早すぎる昼飯の理由がわかった。娯楽施設はおろか飲食店すらろくに見当たらない。見渡す限りの住宅地。寝に帰るだけの町。典型的ベッドタウンだった。
それまで土方がいないように歩いていた高杉がふと振り返る。ついてきた野良猫を確かめるような眼差しで。そしてまた歩きだす。
高杉の目は何を映していようが同じだった。その奥にいるものが、同じだった。
銀八の面影がまた揺れた。
住宅住宅住宅。似たり寄ったりのそれらがひたすら続く。寄るところがまるでない。そう感じた矢先、高杉はクリーニング屋に立ち寄った。通りすぎざまに入っていった。その近くの共同住宅の片隅にあるヤドリフカノキに気を取られていた土方は反応が遅れた。外から覗くと、狭いカウンターに伝票を差し出す高杉の背中が見えた。なまぬるい風が吹いた。春の衣替えキャンペーンと書かれたのぼりが波打つ。他に見るものもないので、さっきのヤドリフカノキを見あげた。高さは3メートルを越え、二階の窓に届きそうだった。
暫くしてクリーニング屋から出てきた高杉はハンガーに吊るした白衣を剥き身で持っていた。土方は白衣を見つめた。それは、よく黒板を遮った白だった。よく校内を横切る白だった。それが高杉の傍らで揺れている今が妙に腑に落ち、「いつから?」と土方は聞いた。
「最初から」と高杉の背中が答えた。
その最初がいつを指すのか土方にはわからない。わかりようがない。ただ高杉の目の奥の、果てなき闇に唯一いるものを思った。目が合うたび、それはいた。いくらすくっても永遠に無くならない海のごとく、果てしなく。
そこから次に高杉の足がヤドリフカノキのアパートに向いたとき、土方は何故かそんな気がしていた。ここを目にしたときから中へ入る予感があった。あとをついていこうとして、ふわりとひるがえるセーラー服とすれちがう。蝶のように舞うリボンの残像と共に視界をかすめていったそれはあっという間に路地の奥に消えてしまった。平日昼間に女子高生?
「今って期末の時期か?」高杉はそれには答えず、「よくいる」とだけ言った。よくいるのか。二階への階段を上っていく。雑に持たれた白衣の裾が段差を擦りそうだ。ボタンホールについたシミ抜きのタグを土方は見た。そういやあのダメ教師、いい年して、しょっちゅう何かをこぼしたようなシミをつけていた。高杉によれば今回のシミは、杏仁豆腐らしい。ガキか。
二階の角部屋の前まで来た。坂田と書かれた埃っぽい表札に目をあげてから、周囲の景色に視線を泳がす。地上よりは高いだけの眺めの中に、台湾料理の看板を見つける。
「なんだ食うとこあんじゃねえか」
「あァ嘘みたいに不味いが、夜は行列ができる。他にねェからな」高杉の声が鍵を捻る音に重なった。杏仁豆腐って、そこのか。と土方は思ったものの、ドアを開く瞬間の他人の家の匂い、内に籠る生活臭に口をつぐんだ。高杉の手から離れたドアを土方の手が支える。そのときドアノブにかけられた花柄の紙袋に気がつく。「先生へ?」と書かれた封筒が隙間にちらつき、すれちがったセーラー服が脳裏にはためく。
「袋かけたままでいいのか」
「取ったら中にいるのわかるだろ」
紙袋を彩る花はクロッカス。花言葉は青春の喜び。切望。
クロッカスの紙袋をかけたまま閉じたドアの内側に、土方は取り込まれた。奥行きはあまりない。どこを見ても行きどまる。二人分の息だけで詰まる空気に、既にいるような気がして脈打ったが、平日昼間にいるわけもない。奥に消えた高杉が窓を開けたのか、風が吹き抜けた。シンナーくさい風だった。密集のキッチン風呂トイレを横目に奥の薄暗い八畳へ踏み入った土方はそこで思い切り何かの障害物に足をぶつけた。悶えながら睨みあげると、それはロフトへ上がるハシゴだった。
「アイツは中指の骨イッてたぜ。小指がって叫んでたがイッたのは中指だった。ククク」
高杉の笑った顔を、土方はポカンと見上げた。何の含みもない笑い。それは七夕が雲ひとつなく晴れるとか、オムライスの卵を破らず包めたとか、そんな確率で巡り合う高杉の顔だと土方は思った。痛さで滲む涙の膜が、高杉を幼く見せた。よく知る爪の先に集まった痛みを何故か初めて感じる痛みに思い、土方はハシゴを呪った。やつらがこの先も何度もこのハシゴに足をぶつける呪いをかけてやる。
高杉のスマホがまた鳴った。通知に目をやり舌打ったあとキッチンに消えた。高杉が立ち上がったことで空いたハシゴを、今度は土方が椅子にした。土方は家具も壁も天井も電化製品もこの家のすべてが自分を探るように息づいていると感じ、なにげなく触れた床や壁につけた指紋はそのまま高杉たちについてしまう気がした。ジャーという水道の音がする。ハシゴの隙間から窺えば、製氷皿を持った高杉が横切った。さっきの通知は、製氷の催促か。テレビボードに並ぶ酒瓶がそれっぽい。普通ならオーディオなどが納められそうな空間がただの酒置き場だ。一升瓶やウィスキーボトルの残量に目を眇めていたところへ、アイスモナカの袋をふたつ持った高杉が来た。
「お前、アイスモナカとか食うんだな……」
「俺の食いかけと、銀八の食いかけ、どっちがいい?」
「いや食いかけを寄越すな、いらねえよ」
見ると、どちらも封が破られ、中身のモナカは半分齧りかけ。
「どっちがどっちの食いかけってなんでわかる? 名前でも書いてんのか?」
袋を裏返してみても特に何のサインもなく首を傾げたところへ、「歯形でわかる」と高杉が言った。土方は高杉を見た。そして袋からはみ出た二つの齧りかけにじっと目をそそぐ。
「アイツの歯形はえぐい」
日が大分傾いてきた。
土方は他人の家、それも元担任の家で、後回しにしてきた手書き指定の面倒なレポートを一気に片付けてしまった。消しゴムをかけるたび肘をぶつけて端まで追いやってしまった灰皿を元の位置に戻してから伸びをする。啜った鼻を噛もうと求めたティッシュ箱を棚に見つけ、手を伸ばす。するとそこにはティッシュではなく蜜柑が敷き詰められていた。みかん。酸っぱそうだ。気が抜けて背後のソファに凭れた土方の頭は床につきそうなほど沈むはめになった。そういうつもりはなくても、頭が沈んでいく。不可抗力だ。重い首を回すと、さっきまで部屋中に射していた陽が今は窓辺まで引いてしまった。これまたベッドと呼んでいいのか怪しいほど沈みきった寝台に、ここで暮らす男の重みが見てとれ、傷だらけのソファから動けない。
「土方」
肩を揺さぶられた。
まだ夢に落ちて間もなかった。
落ちていく途中で、くっと糸でひっぱられた感じだった。水中みたいに朧気な誰かの手に夢から引きずりあげられ、息も視界も定まらないまま口を動かす。「高杉?」
「何、お前ら仲良かったの」
はっとして跳ね起きた。一瞬どこかわからない。右に左に目を巡らせ、両手で顔を覆う。汗ばんだ手が熱っぽいのに冷たく、耳の血がどくどくいった。部屋まるごと動悸しているかのようだった。どこかでゴトゴトッと音がして、また肩が跳ねる。今のは音からして、製氷皿から氷が落ちたものだろう。顔から手を剥がす。今がいつで何処にいるのか、瞳から五感に押し寄せる。いつのまにか部屋から去った陽が、遠くの空で燃えている。
「何、お前ら仲良かったの」
耳の奥に銀八の声が残っていた。それは職員室の、コピー機の前だった。進路希望の紙を差し出すと銀八は、立ったまま啜っていたカップ麺を、コピー機の横に積まれたダンボールの上に置いた。白衣で手をぬぐい、受け取るその眼差しが読めない。眼鏡が若干曇っていたからだ。斜めに傾いたカップ麺の湯気。コピー機の、ガーという音。読み取り部の左右に移動する光。それらに紛れるようにして、それは聞こえた。「?」というこちらの反応を見て、「アーただの似た者同士か」と笑ったのだった。
日が暮れると、土方はゆっくりとソファから頭をもちあげ、ロフトを仰ぎみた。高杉は寝ると言って、そこに上がったきり降りてこない。土方はハシゴに手をかけた。土方の体重分の音に軋むそれを上りつめ、膝で這うようにして踏み入った。むっとこもる空気が埃っぽく、肌はじっとり汗ばんだ。高杉は寝ていなかった。壁際に敷いたマットレスに点の集まりのようにいる影、それが高杉だった。小窓になすりつけられた黒髪が静電気を帯び、撫でまわされた直後の猫のように乱れていた。
「さっきから一匹の蚊が飛んでる」と、窓に映る高杉が言った。
「今また目の前を通った。お前の方に行った、ああ、また見えなくなった……追っているつもりでも、すぐ見失う。盲点ってやつだ。だからそんなときは、わざと血を吸わせてやるんだよ。俺の血でふらつきだすまでな」
立つと頭を天井にぶつけるため土方は膝でマットに這い寄った。そのとき耳元を羽音がかすめた。土方はそれが命を一人の男の血で満たす悲しい羽音の気がした。「もう逃げねえよ」土方が窓を開け放つと、そこには、こちらに手を伸ばすように実をつけたヤドリフカノキがいた。下から見上げた窓はここだったのだ。
やがて室外機の音に混じって、近づいてくる原付の音がする。それは真下の道でエンジンを止めた。鍵についているらしい鈴と一緒に、けだるそうな足音が階段を上ってくる。「お前が出迎えろよ」そう言って笑う高杉の、風にはためく髪の隙間。その首筋にちらつく鬱血の痕に土方は吸い寄せられた。蚊の痕なのか、それとも、えぐいという誰かの痕か。
鍵の回る音がして、床を踏む靴下の気配がすぐそこまで迫る。あの日去った校舎を背負って立つ影が、ロフトの下に濃く伸びる。土方は喉の奥が熱く狭まるのを感じた。高杉の掌に背中を押され、「先生」と呼びかけた。
2022.08.07/まだ青い