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16.カナフ:白紙、空、内側







 卒業後も、坂田は制服でうろついた。単純に着る服がなかった。明日から何着ようと考えているうちに春休みが終わろうとしている。珍しく早目に集合場所に着いた坂田は、周囲を見回しながら薬局の前のガードレールに凭れかかった。出入りも無いのに何に反応したのか、ガーと開く自動扉。病院の匂いがする。吸殻まみれの地面に目を落とす。それはこれまで何人もの誰かが、ここに立ってきた痕跡だった。今はそこに坂田が立つ。明るすぎて痛い薬局のガラスに坂田の制服姿が映りこむ。地面を這うその目は、生きてきた分、死んでいた。そこにいる坂田の体を、触る闇。
 マーブルチョコの筒を坂田は開けた。スポンッと抜けた蓋をまた嵌める。手持ち無沙汰に繰り返される間抜けな音。スポッ、シュポッ、パカッ……筒を開け閉めする一瞬に散る甘い匂いを吸い込んだ。ごく最近、これと似た何かがあった気がして、しつこく開閉を繰り返す。思いだせそうで思いだせず気持ちが悪い。  頻りに筒の開閉を繰り返す坂田の上の空が曇りだす。月が隠れ、雨がぱらつきだした。その凝視すれば引っ込みそうな雨粒を掌で受けようとしたところで、誰かの来る気配があった。横を向く。
 どうやら坂田と同類の制服が、ぶらぶら近づいてくる。
 おかげで、雨がよく見えた。そいつの肩で散る雨粒がハッキリわかり、坂田の脳裏に廊下が伸びた。学校の廊下だった。教室に入る前のそこで、しょっちゅうガンを飛ばしてきた顔が、あの毎日の廊下を来る空気で、まっすぐ坂田に向かってやって来る。ふとした視界にいつもいて、この三年、腐るほど合わした顔。土方だった。
「え? 呼んだ覚えねーけど」
「そっくりそのまま返す」
「だろうな。たぶん一生、待ち合わす事ねーよ」
 視線を剥がして各々の闇に戻った。聞けば、それぞれ別の奴との集合場所がかぶっただけだった。かぶるか普通? それが不思議とかぶった。こうした遭遇は数えきれず、同じ時、同じ薬局の前、同じガードレールに凭れかかる土方が横目にちらつく。
「ところで、なんで制服?」
「そっくりそのまま返す」
「そっくりそのまま返してばっかだなお前」
「テメー留年か?」
「いやいやいや卒業式いたろうが!!」
 土方に向かって飛ばす唾は、雨雫と見分けがつかない。汚れるのも構わず、錆びたガードレールに揃って凭れる背中。暗がりに溶け込む制服は、もはやただの。
「コスプレ」
 一拍置いて坂田が言った。卒業した以上、コスプレだろ? 俺もお前も、と口に出して、空虚になった。宙ぶらりんだった、なにもかも。薬局の前に置かれたカエルに向かって坂田は、土方ァと呼びかけた。
 ついでに聞くけどよぉ……、
「お前いっつも、俺に何を売ってたの?」
 雨に顔を洗われながら、坂田は筒の開け閉めを繰り返す。
「喧嘩?」「油?」「春?」
 思いついたのを順に言っていく。春はマズいか。でもヤったし。
 スポッ、シュポッ、パカッ……開閉する筒の内側にちらつく白い芯。そのどうにも安っぽい作りに、見覚えがあった。あーそうか、と坂田は薄笑い、証書の筒だ、と虚空を仰ぐ。
 卒業式から帰った後、坂田は筒から出したそれを机の上に出しっぱなしにしていて、うっかりそこに牛乳をぶちまけた。どうしてそうなったのか、時間を巻き戻したところで説明はできない。坂田は呆然と悲惨な机上を見下ろし、筒の蓋を開けてみた。覗いたそこは空洞だった。間違いなく牛乳の海に浸かったそれは白紙に見えた。
 いくら振っても、もう何も出てこない筒を覗く坂田の内側。そこから漏れる素の顔は、土方からは死角となり、薬局のカエルだけがそれを見る。
「お前といたら破産しそう」
 ボソっと呟いたその時、背後から声がかかった。
 声のした方を振り返る。向う側の道路に立つ影。やっと来たか。
 関節を鳴らして、立ちあがる。瞬間、掴まれた手首に目を落とす。鼻をつく、洗っていない制服臭に笑ってしまう。向こうもそうだったようで、牛乳臭ッと鼻を摘まんだ。そうして、あっさり離された手でガードレールを掴んだ。「じゃあな土方」。跨いで濡れた制服から、お漏らしみたいな雫をポタポタ降らせながら、坂田は雨の道路を渡る。

2019.10.18/今は昔