枕に押しつけていたらしい瞼がぐりぐりと痛む。片目をひらくとねっちゃりとひっついていた睫が剥がれる感触がし、眠気をひきずったまま顔をあげた。ぐぎい、ぐぎい、と半開きの扉が繰り返す音を耳にして、誰だ閉めなかったやつ、と考えてから、ああ最後に寝たのは自分だとサンジは気づいて瞬きをする。まだ夜は明けていない。月光だろうか。半開きの扉、その真下に斜めに影をつくって、そこから這入り込む淡い光が部屋を真っ二つに割っていた。その光が男たちの寝顔を時たま浮かびあがらせている。ふいに誰かの鼾がとまった。サンジはうつ伏せの状態から上半身を起こし、胸をのけぞらせて首を天井に向けて折りまげた。喉仏を汗がくだっていくのを感じた瞬間、決めかねていた朝食のレシピを思いつく。
 海を視界にいれながら、目覚めの煙草を吸った。昨夜、味見をした際に火傷した舌がひりっと痛むのを感じる。闇のなかを手でまさぐりスイッチをいれた瞬間の眩しさに瞳孔が縮む。手を念入りに洗うと冷蔵庫から玉ねぎトマト茄子ニンニク人参ピーマン生姜を順に取り出し、包丁でざくざくと刻んでいった。トマトの皮を一枚一枚剥いていく爪が冷えていくのが心地よかった。フライパンに油をひいてから生姜とニンニクを炒め、そこに玉ねぎも加えて、じゅっと溢れあがる湯気と香りを吸い込んだ。ヘラにくっついた玉ねぎを残さず剥がし他の野菜と一緒にひき肉も投げ炒めるうち、汗があとからあとから噴き出てくるので、何度も腕を伸ばして無理な姿勢で拭わなければならなかった。一度手をとめて顔をあげると、半開きの扉の向こうに、人影がぬっとあらわれる。それは扉の真下から伸びている平行四辺形の影を崩すようにして近づいてくる。すると扉の隙間から見慣れた草履が飛び出した。つづいて欠伸をこぼすルフィのひらいた喉の奥。ルフィはシンクのそばまで近づいて、サンジの手元を覗き込むと、んまそう、と涎を垂らす。カレーだな、とルフィが笑うので、ああと頷く。夏野菜たっぷりの栄養満点キーマカレーだ。ルフィの影で見えにくい鍋の底では、ぼこぼこと泡が跳ねているのがわかる。ふいにルフィの顔が近づいて、サンジの中指をぱくりと銜えた。カレー粉でざらざらとしていた指だった。ルフィの舌が中指からソレだけを生温かく綺麗に舐めとっていった。ルフィの唇が歪む。かっれえ! 当たり前だろバカ。
 ダイニングの椅子に首をのけぞらせるように座ってマグの縁をくわえたまま歯でぱかぱかとやっているルフィを横目に、サンジは底が焦げつかないようにして掻き混ぜながら煙草を吸っていた。いー匂い、とルフィがつぶやく。卵のせるか、のせないか。サンジの問いに、「のせる」とすぐ返ってくる。薄暗かった扉の向こう側が明るくなりはじめ、ルフィが首をのけぞらせたまま眼を細めた。「夜中に目覚めて、ここから光が漏れてたら、一気に腹減るんだよなァ」そうでなきゃ困る、という感情を、緩んだ唇の奥で殺して、サンジは熱いままの中指を唇でくわえて冷ますしかなかった。



  灯  台  の  は  な  し 



 砂浜に瀕死の状態でクジラが打ちあがっていた。船上を這うようにして沈黙が流れていき、それはすべてルフィの背中で跳ね返っていくようだった。手摺を握っているルフィの拳の骨が浮きあがっているのをゾロは見おろした。靴先にルフィの影が伸びてきている。動かすと、濃い影のなかに靴がずぶりと溶けていきそうだった。靴裏をじりじりと甲板に擦りつけているのが、ルフィの影を逃すまいとしているようであほらしくなった。黒い影溜まりからゾロは脚を浮かす。
 ルフィの手のひらがクジラの肌に触れた途端、それは最後の潮を噴き出した。その溢れ出した潮でルフィの半身は浸かり、海の成分を含んだ水によって力の抜けきった身体がクジラに凭れかかっていく。つめてえ、とルフィが声を漏らした。ルフィに抱きつかれたまま微動だにしなかったクジラの開ききっていた目玉がその色を変えた。濁っていたものが徐々にとれ、皺皺の目蓋が静かに閉じていくのをクルーたちは見ていた。ゾロも見ていた。跳ねていた尾ひれが最後にじゃぽんと浅瀬を弾いたのが最期になった。「彼」のいるその場所から赤い血がひろがって砂を染め、海中を染め、クルーたちの足の底を流れていった。ゾロは、裸足の裏側で赤いものが伝っていくのを感じながら、ルフィから目を離さなかった。死んだクジラに手を触れたままでいるルフィのいる場所が血溜まりだった。ルフィの麦わら帽子をゾロの右手が握りしめていた。それを奪っていこうとする海風にゾロの右手は微かに耐えつづけている。

(Φ)

 丘のうえで弁当の蓋を開ける。おにぎりを口のなかに押し込み、水筒の蓋にそそがれた麦茶を飲み干し、胃のなかに栄養が落ちていくのを身に染みて感じながら、ウソップは原っぱに寝っ転がった。眼球が痛むほどの青いのが視界の端から端までつづいていて、さびしい。自分の下睫が視界の底を邪魔している。鼻の穴からはいってくる匂いは潮と、サンジのつくった特製弁当の。
「なあチョッパー、さっきあいつなんて言ってたんだ」
 ルフィの声が右隣からして、ウソップは寝返りを打つ。死にゆくクジラの眼球が過ぎって肺が膨らむのを感じる。「なんか言ってるような気した」肉の骨をごりごりと齧る合間にそう呟いたルフィの右手が、ウソップの水筒の蓋を奪っていった。あ、それおれの。と思ったが口には出さなかった。ウソップの飲みかけのをルフィはぐいぐいと飲んで、げっぷを吐き出したりして、チョッパーは黙ってそれを見ているのか。おかしいな。生い茂った草の隙間から見えるチョッパーの毛並みを触ろうか触るまいか、なんて。
「帰りたい」
 あいつ、そう何度も言ってた。眼前を、チョッパーの毛並みが風でなびくのがこそばゆい。再び寝返りを打つ。そっか。間を空けてルフィがそう呟いたりするので、ウソップは目蓋をごしごしと擦るより他なかった。ルフィの膝が目の前にあって、その膝のうえを小さな蟻が懸命にのぼっていくのを見ていた。小さな丘だ。そしてその先に灯台がある。風を受けてまっすぐに聳え立つ白い灯台。あ、とウソップは跳ね起きて、「あんなとこに灯台が」と指をさした。それにつられるようにしてルフィが勢いよく振り返ったので、飛ばされそうになった麦わら帽子ごとウソップは彼の頭に覆いかぶさっていった。

(Φ)

 フランキー!起きて! 浅い睡眠を繰り返していた脳が急に覚醒して一瞬視界がぐらりと揺れたのをそのままに、なんだ?!と上擦った声が飛び出ていった。まっすぐに歩けず左右にふらつきながら甲板に出ると、大時化である。船が今にも木っ端微塵に大破してもなんらおかしくないほどの海の荒れように、フランキーはニイと唇の端をつりあげてしまう。慌しくクルーたちが走り交わるのを避け、フランキーは迷いなく燃料補給のためエネルギールームに向かっていった。雨飛沫が頬に飛んでくる最中、振り返るとルフィがライオンの鬣にしがみついているのが視界端を流れていってますます笑みが深まっていく。
 衝撃波が海面に放出されたのと同時、船は勢いよく嵐のなかを突っ切って、遠くに見える光にただひたすらに向かっていくのみだった。雷光が後ろへ後ろへと流れ、雨風が肌を弾き掻っ切っていっても、あの光は消えたりはしない。フランキーは濡れた髪を指先で避けながら眼を細めて、あの光を追い続けた。その延長線上にはルフィの濡れそぼった身体があって、そこから闇は散っていくのだった。

「あいつが船首だ」

(Φ)

 フランキーの言葉が左耳から右耳へと突き抜けていって、ナミは暴れていた髪の毛をおさえてルフィの方を見た。一層強まった光にルフィが飲み込まれていくのがわかった。いつも先に行くのは、あいつ。ヒールが甲板を軋ます音をたて、背中がひっぱられるような感覚とともに落ちていきそうになって慌てて手摺にしがみついた。嵐を抜ける気配は、浮遊感とともにやってくる。

 闇に浮かぶ小船が不安定に揺れ続けているなかルフィは勢いよく立ちあがって、眼前に聳え立つ灯台を見あげていた。鼻の穴に突っ込んだ爪先から鼻くそを飛ばしているのをゾロが避けたので、船が傾きかける。ナミは既にこのとき怒り疲れていたため、どうとでもなれと思ってルフィの輝く瞳をじっと見ていた。おれ、のぼってくる。ルフィが云った。やっぱり、と項垂れ小船の木板に指先を沿わせていると、突如として目の前からルフィの気配が消え去った。反射的に顔をあげれば、灯台のてっぺんまで伸びたルフィの腕がぐるぐるとまわりつづけるライトに照らされているのが見えた。ロケットのようにまっすぐに飛んでいったルフィが頭上彼方へと消える。嘆息して、小船から半身を乗り出し、海面を爪先でなぞっていく。暗くて何も見えやしないが、指先から伝わる冷たい感触、鼻腔に纏わりつく潮の匂いは、どこまでいっても海のうえなのだと思い知らされる。つながっているので、逃げられやしない。海からも、闇からも。ゾロの鼾がばかでかいのに腹立って、船を思いっきり揺らしてやった。起きやしないけど。
 ルフィの大声がして見あげると、遥か遠くの頭上に麦わら帽子が見えた気がして瞬きをする。何をしても起きやしなかったゾロの片目が薄っすらと開いた。上半身を起こした途端に、目の前にゴムの手が伸びてきて、え、とゾロとナミが同時に口をあけた。それはゾロの胸倉を掴んで、そしてあっというまに小船からゾロの姿も消え去った。ゾロの右靴が抜け落ちてナミの頭に落ちてくる。いったあ、涙目になって灯台を睨みつけるも、声は届かない。ひとりになった小船を見渡す。心臓がざわめいて仕方がない。
 灯台の重い扉を血管がひきちがれそうになりながらもひとりで開けた。案の定、中は真っ暗でおそるおそる一歩踏み入ると、靴先がなにやら段差にぶつかった。階段か。闇のなかをナミはひとり手探りで一段一段のぼっていった。螺旋状につづく階段はいつまでも何処にも行けない気がして途方もなかったし、待っていたらルフィが自分のことも引きあげてくれたかもしれないと思うと余計に進みが遅くなった。どうせもうすぐあいつらとはおさらばなのだから、と自分のなかの誰かが云う。こんなことはすべて意味のないことだ、と自分のなかの誰かが唾を吐く。それがうるさくて、眼をぎゅっと瞑る。
 光が見えた。息を切らしてナミは力を振り絞って階段をのぼりきり、外に出た。途端に、ものすごい強風が至る方角から吹きつけてきて、うっと声が漏れる。眼を開けていられず、手で風を封じながら、円周を歩いていくと、ふたりの男の背中がかろうじて確認できた。まきあがる風の音で自分が発す声さえも掻き消されてしまい聞こえなかった。なんとかしてふたりの背後まで辿りつくと、ルフィが、ぱっと振り向く。声は聞こえない。それでも、「ナミ」とその唇が呼んだのがわかってしまった。眼をひらく。乾いていた眼球がじゅわりと震えた。腕がのびてきて肩をがっと掴まれ引き寄せられてから、眼を閉じても光がちかちかと点滅しつづけた。それが灯台の光だったのか、朝日がのぼりかけていたのか、それともべつのなにかだったのかはわからない。両隣にルフィとゾロがいるのだけがたしかだった。360度、海のパノラマだった。なんだか笑けてきて、ルフィに掴まれている肩が震えた。ああ、もう、イヤんなるなあ。

 あのときはまだルフィを信じきっていなかった。手摺を握る右手に力を込めて、ナミはあの光を見据える。ルフィが飲み込まれてから、数秒。あの光は眼前まで近づいて、そしてナミの身体を引きずり込もうとしている。(いつも先に行くのは、あいつ。)ナミは白い歯を見せて、迷わず光のなかへ飛び込んだ。

(Φ)

 一歩前に出した靴底がつるりと滑って肝を冷やす。肩からずりさがったルフィを抱えなおしサンジは慎重に奥へ奥へと脚を進めていった。力なく背中のほうへ垂れたルフィの腕がぶらりと揺れるたび、暑くもないのに汗が額に滲んでいく。先を行くウソップとチョッパーが空いたスペースを見つけてくれていたので、そこにルフィを静かにおろした。ルフィの目蓋には暗い影が落ち、薄っすらと開いた唇からは微かに乱れた息が漏れ続けていた。チョッパーが診察をつづけている間、サンジは手持ち無沙汰のまま煙草を吸い続け、吸殻をすべて携帯灰皿のなかにぎゅっぎゅと押し込めながら岩に凭れかかって、ルフィの呼吸音に耳を澄ませるしかなかった。ぽちゃ、ぽちゃ、と水滴が落ちる音がする。そこでふと見回してみれば、天井や地面から無数に伸びた鍾乳石が、闇のなかウソップの持つ蝋燭に照らされて幻想的に輝いていた。背中がみるみるうちに冷えていき、煙草のフィルターが凛と尖っていく感触が唇のなかにある気がする。チョッパーがクルーたちのほうへ振り向き、「熱がさがって意識がはっきりするまでは」と青い鼻を震わせながら云った。クルーたちがルフィから少し距離をとって、その場に座り込んでいくあいだも、サンジはなかなか動けずにいた。無茶をするのはいつものことだ。ルフィが手を出すなと云ったから、出さなかった。ルフィの笑い方はいつも別れを暗示しているようで、偶に耐えがたいと思う。横たわったルフィの腹の傷口が包帯のしたでじゅわりと血を滲ませているのを見おろす。まるで、あんときのクジラだ。

(Φ)

 蝋燭の炎が揺れたのでロビンはそっと顔をあげ、いまだ意識の戻らないルフィを数秒見つめてから再び手元の地図の皺を伸ばす。何度目かの爪先でここまでの経路を辿っていくと、やはりこの印に行き着く。目玉のような太陽のような舵輪のような、そのどれもに見える印のうえで蝋燭の炎の影が短くなっていく。「灯台」ロビンはちいさく声に出した。ナミが首を傾げて地図を覗き込んでくる。
「いま私達のいる場所は、おそらく灯台」
 この鍾乳洞自体が、きっと灯台なんだわ。え、でもこんな真っ暗じゃ道標になんてならないんじゃない? 地図の「灯台」をあらわす記号を彼女たちは眺め、沈黙した。揺れる船ではルフィの出血が酷くなると陸を探していた矢先に、突如としてあらわれたこの海の穴。地図上ではちょうどこのあたりに「灯台」をあらわす印。溶けた蝋がずる落ちてきて、蝋燭を次第に短くしていった。

(Φ)

 真っ暗な海に落ちてしまって、あとはただひたすらに沈んでいくしかなかった。苦痛は消え去って唇の端から白い泡がぶくぶくとのぼっていくのを瞬きの狭間で見つめていた。赤いのは、血だろうか。海底まであとどのくらいだろうか。遠くから聴こえてくる音楽は、歌いなれた海賊のものだった。ビンクスの酒を届けにゆくよ♪ 唇で笑うと泡が一気に放出されて沈む速度が早くなる。歌が近づいてくる。次第にでっかくなって、海自体がぐらぐらと揺れているようだった。ゆっくりと睫をあげて眼を凝らすと、黒い海中で沢山の船が行き交っていた。皆、方角はばらばらで定まらず、舵輪がぐるぐると回り続けている。沈んでいくのはとめられない。誰かに腰を引き摺り下ろされるような感触とともに、底へ底へと落ちていくなかで、ブルックの姿を見た。船から骨の手を伸ばし、何度も首を横に振り続けているので、首がぼきりと折れてしまうのではないかと心配になった。いいよブルック、大丈夫だ。泡がぽろん、ぽろん、とのぼっていく。歌声が直接鼓膜に叩きつけられているようなほどに大きくなったとき、はっとなった。そのとき初めて、海底の微かな光に気がつく。ちかっちかっと、瞬いて、暗い海底のなかでそれはまるで希望だった。手を思いっきり伸ばせるところまで伸ばして、その光を目指して、海水をがばがばと飲み込んでいった。腹のなかに潮水が溜まっていくのが否応にもわかって、苦しくなってきた。クジラから溢れ出した潮を思う。自分の頭のてっぺんにも穴があいて、そこから潮が噴き出すのかもしれない。構わない、と思った。


 間接がどうにかなってしまう寸前まで腕を伸ばしきったところで、爪先がなにかに触れた。触れた瞬間、それは炎を吹きあげた。「え」爪先から一瞬にして身体は炎に包まれて、ぐうっと眼を閉じた。潮が溢れたのは頭のてっぺんからじゃなかった。目蓋が熱をもつ。頷いて、眼をひらいた。赤い炎。

「おれ 行くよ」

(Φ)

 視界いっぱいに、星が煌いていた。360度、光のパノラマだった。でもそれらの光は、覗き込んでくるクルーたちの顔が邪魔をして、殆ど見えやしなかった。腕に刺されている管のなかを赤い血が流れていくのを、じっと横目で見あげて、息を漏らす。幾多もの気配がそばにあって、安堵からか眠気がにじり寄ってきた。ばか、寝るな。鼻を摘まれて、再び眼をあける。サンジの眉毛があいかわらず面白くて、ぶふっと噴き出した。あ? ぶちぎれた顔が余計に可笑しい。右手に冷たい感触があって、ああ骨だな、きもちがいいな、と朦朧とする意識のなか思った。ちかちかとあちらこちらで光が瞬くので、試しに数えてみると8個あった。うわっ、と耳元で声がするのも構わず、それら8個の光を引き寄せてまとめて抱きしめたことで、ルフィの腹から再び滲みだした赤い血。生温かいものがクルーたちの間を伝っていき、ふいに足元を見たゾロの視界で、血溜まりが広がっていく。「ししし、腹減ったなあ」ぐっと、その光に耐える。

2013.07.16/灯台のはなし