春の海には無数のホタルイカが浮き上がり、船が碇を下ろすのと同時にそれらが浜辺に打ち寄せられるのをナミは見る。砂浜に足をつけてから近くでみると、その多くは死んでいるのだった。
強く吹きつける砂混じりの風が頬にぶつかり、ナミは視界を塞ぐ前髪をよけながらホタルイカの死骸を見つめた。透明で滑らかな無数の死が其処にあった。ナミは思わず口元を手で覆ってから、指の隙間から漏れる息が熱いと思い、白波に潰されつつある透明の死骸たちの冷たさを推し量る。
ふと気配を感じ、見上げると甲板に立つルフィの視線に突き当たる。手摺に掛けたルフィの手の甲が青白く光って見え、ナミはもう一度足元を見おろして息を呑んだ。死骸の中、未だ青白く発光しているものがあった。透明の袋の内側で仄かに光るその明滅を、ルフィが見ているのだと思った。ルフィの上半身は手摺を超え、今にも海に落ちていきそうに揺れていた。バカ落ちるわよ、と言いかけてナミは以前にもこんなことがあったように思う。そのときルフィの上半身が浮き上がり、甲板へと引き戻されていく。背後から伸びたゾロの手がルフィの襟首を掴み、それに対するルフィの呑気な声が聞こえ、それはすぐに潮騒に掻き消されていった。先程光っていたホタルイカは既に死骸へと変わり果て、波に呑みこまれ吐き出されを繰り返す。瞼裏では、未だ青光りが見えた。轟轟と旋風が吹き荒れる春の海。
夕刻、凍りついた海をクルーたちは見おろしていた。朝方になれば冬の海域を抜けることは報せてあったので、積もった雪が溶けてしまわぬうちにとルフィたちは頻りに騒いだ。宴会の終わり、サンジが出してくれたホットワインを最後の一滴まで飲み干してしまってから、ナミは部屋へと戻った。ベッドに潜ってすぐ眠気が押し寄せ、目を閉じる。乾いた冬の空気に沈み込むようにしてナミは眠った。
夜半、目を開ける。肌中べっとりと汗を掻き、シーツを捲り上げ上半身を起こすと隣で眠っているはずの気配がなく、ナミは部屋を出た。数時間前の寒さが嘘のように消え去り、湿気混じりの生温い風が肌に纏わりつく。目に見えてわかるほどの強い風が船上に吹き荒れていた。雨だか波だかわからぬ水滴が目に飛び込んでくるので、俯きがちにナミは船上を歩いていき、手摺に掴まった。薄闇の中、目を凝らして甲板を見下ろす。甲板の手摺近く、青白く光っているものがあった。手摺に凭れかかるようにして動くその影を暫し見ていた。風の音が轟轟と耳朶に喧しく、立っていられないほどであった。それに合わせて船も揺れ、ナミは手摺に掴まりながら海に目を凝らす。船を覆っていた雪はすべて溶けているようだった。凍りついた色を纏っていた海も、今は夜のそれへと変貌している。風と気候からいって、次は春だと予測できた。海上を風が吹き荒び、様々なものを吸い込み巻き上げているのだった。目を凝らして見おろしていたその海面に、沸沸と泡が浮かびあがるのにナミは気付いた。甲板に見える彼女に呼びかけようとし、喉奥がひくつく。旋風が視界を奪い、思わず目を閉じた瞬間、瞼裏が青白く染まったような気がした。
海面に、無数の青光りが浮かんでいた。ゆらゆらと青白く光るそれらに目を奪われ、ナミは息を呑んだ。数え切れないほどのホタルイカが浮かびあがり、彼方此方で透明の体内から光を滲ませているのだった。手摺を強く握り締め、ナミはそれらを見つめていた。ふいに甲板にいる彼女も、それに吸い寄せられるように手摺に体重をかけているのに気付いた。上半身を乗り出している彼女の踵が床から離れた瞬間、ナミは声を出す。その軽やかな身体が夜の海に飛び出していく。
ビビ! ナミが声を出したのと同時、かぶさるようにその名を呼ぶ別の声がし、浮いたビビの身体を背後から引き寄せる手があった。ルフィさん、とビビの唇が動くのを知り、胸を撫で下ろして、ナミは二人の姿を上から見つめた。ルフィが視線をあげ、それと同時に一陣の風が吹き抜け、嘘のように海は凪いだ。船底を通って、反対側へと移動してきたホタルイカの群れがナミの視界端に浮かびあがる。
それは青い命を撒き散らしながら、死んでゆくのだと思った。新しい命を吐き出し、死ににゆくのだと思った。ナミは振り向き、ルフィがビビの腕を掴んだまま離さないのを見た。ビビは夜の海を見つめたまま、呆然と其処に立ち尽くしている。そのビビの髪が青白く光を放つのに、ナミは息を呑んだ。ナミの瞳の中で、青が揺れる。旋風のやんだ後にこもる耳鳴りに、胸が疼く。此処が、春との境目だった。
2011.05.02/身投げて青