齧りかけの梨が転がっている。くの字にまあるく歯型のついた梨はなんともバランスの悪い不恰好なかたちで右に左に揺れている。ルフィは何処へ行ったのやら。ついさっきまで、梨のかけらを歯からばらまいては、腹へった腹へったと今にもはちきれそうな目でそのへんにいた筈。梨から香るエステルはまだみずみずしかった。くの字の部分をなぞる爪が振動するデコボコ、ルフィの前歯の大きさについて。わずかにひらきかかっていたナミのくちびるは別の微かな気配ですっと閉じられる。入口。タオルを首にかけたゾロが切れた瞳に映しているのは水槽で、まだ魚いねえのかと熱っぽい溜息をこぼす。そのひたいや首筋に無数に浮いた粒。空腹をさらに煽るようなことするなんてばかじゃないの。呆れたナミの声に重なって男の腹が盛大に鳴る。これでも食べてたら? 空中に投げた梨が弓なりにゾロの手中に吸い込まれていった。「食いかけじゃねえか」、「ルフィのね」。くの字に齧りついたゾロの手のなかでみるみる梨は萎んでいき、後には芯さえも残らなかった。「あ。」 ゾロが舌でべろりとやっているのが例の「間違われて齧られた」小指であることに気づいて瞳を凝らす。剥き出しだった桃色に薄っすらとかさぶたの膜。そろそろまた誰かの指が危ないかもしれない、からっぽの水槽はあいつを獣にさせるから。
ナイフが果物の皮をさらさらと剥いていく。レモン、パイナップル、オレンジ、キウイ、イチゴ。えぐられたヘタの山。輪切りの鮮やかな断面。ナミさんはオレンジだろ、とタバコをくわえたくちびるが笑って目尻にケムリが流れた。ぷかぷかと泡をふいているボトルの底のオレンジ。
飛び込んだ海は冷たかった。海面を掻く手のひらが透けて浅瀬まで。ぎらつく青空と白い砂浜がちゃぷちゃぷと瞳のなかで揺れつづけていた。光ったのは麦わら。爪先が砂をかすめたかと思うと足がついて泳ぐ必要がなくなる。徐々に水面がさがってやがて胸のしたまで。露になった肌に生ぬるい風。濡れた髪が首筋に吸いつく。麦わらを目指す。絶えることなくはためいている。そのすぐちかく、三連のピアス。また先を越されたと密かに舌打ち。飛ばされかけた麦わらの鍔からかすかに見えたルフィの横顔。笑ってる。くしゃりと崩れた目尻が黒髪で隠れてはまた覗いて睫毛はひかりで濡れていた。となりのピアス野郎と目が合う。ああもうその余裕綽々の眼つきがむかつくのよ。麦わらあたまに覆いかぶさるように体重をのっけると、お、なんだなんだ?とルフィのうなじがあらわになって、そこから潮の匂いがあふれた。
ルフィの胸に置かれた麦わらに触れると太陽に焼かれつづけていたせいか熱をもっている。麦わらをとおしてルフィの息づかいがわかる。空を横切っていくカモメの影がルフィの肌のうえを滑っていって、遮るものひとつない空と海の境目。上唇と下唇のあいだから寝言のようなものがこぼれでてくるので耳を近づけたら、はいりこんできたのは寝言ではなく腹の音だった。呆れかえってそのひたいを指で弾くと、うっと顔をしかめたのは一瞬で、またすやすや眠りに落ちる。見おろしていたら胸のあたりにざらりと砂がはいりこんでくるよう。かちりかちりとまぶたの裏を流れていったのはゾロの指を齧りとったルフィのくちびるで、そのくちびるが目の前にあるものだから、つい出来心。親指の腹でその下唇をおそるおそる撫ぜると思ったよりも乾いていて、あっと思う。あっと思って引っ込めようとした指先がつるりと生ぬるい粘膜に包まれて心臓が跳ねる。そこに前歯がおりてきてチリっと走り抜ける痛み。……食べてる。くっくと肩を震わせて笑う。食べてる。おかしくてしかたなかった。だって私のゆび、食べてる。
ゾロの耳朶にぶらさがるピアス、風で揺れるたび、ちゃりっと鳴った。ルフィの前歯が指の腹のやわらかいところに食い込んで血がぷっくり。ボトルの中身をごくごくと呑みこむゾロの喉仏。波が押し寄せ、また引いていく、カモメが鳴いている、海面と擦れるサニー号の船底、三連の光るピアス。ゾロの横顔が角度をずらし、その鼻筋がこちらへと向く。眼と眼が合う。ひときわ指に食い込んでくる前歯。
「さきに船戻ってる」
むりやり、くちびるから指を抜きとって服にこびりついた砂もそのままに一目散に海へと駆け出していった。青いパノラマがなにかの回想のように流れていって勢いのままに飛び込んだ海はいっそう冷たかった。ほぼ一息でサニーまで。ぶらり垂れさがる梯子に指をかけ、そこでようやく振り向いてみる気になる。うなじに強く当たってくる風に煽られるようにして首をうしろに向けた瞬間、飛び込んできたものは詰まるところやっぱり麦わらなのだった。そのしたでまだ仰向けのままのルフィがいて、そのすぐちかくで光を吸い込んで反射する三連のピアスが揺れているのだった。はじめからそうだった、あいつらはずっとああして、必要なもののそばにいるだけ。あはは、顔が崩れる。ひときわ強い風が吹いておおきく揺れた梯子から、あっと思った瞬間には滑り落ちていく手のひら。ばしゃあんと耳元でうるさく鳴って視界はまたもや青。脇に挟んでいたボトルが浮きあがり、クラゲのような泡がぶくぶく海面にのぼっていく。色とりどりの小さな魚の群れがすっすと横切っていく。海中から見る空は夢を見ているかのように不鮮明だった。ざわめくのは血の流れ。ボトルの呑口でつかえているオレンジを指で押してみる。それでも橙色の液体が溢れ出してくるのは留められなかった。海に溶けていくオレンジ。それと同時に、「間違われて齧られた」指からも溢れだす気配が確かにある。涙が睫からぽろんと浮かびあがった。息が続かなくなるまで、オレンジを見ていた。あはは、まるで巨大な水槽のなかにいて、ルフィに食べられるのを待つ魚みたいだ。
2012.07.23/オレンジ