どおん。音がした。梯子に手を掛けようとしていた指先に緊張が走った。サンジくんきこえたでしょ!はい、今上がります。声を張りあげた。どおん。また音がする。少しずつ近付くその低音に、遠い昔、何処かで見た花火をサンジは思い出した。あれが打ち上げられる音も、こんな音だった。どおん、海が鳴いている。
 前髪から水滴が滴り落ちる。その滴を人差し指で引っ張って丸を描くウソップ。横目で見つめながら棚から人数分の紅茶の葉を取り出す。こめかみあたりが酷く痛むので、自然と眉間に皺が寄るのは仕方がなかった。どおん。また、あの音だ。騒々しく皆が次から次へと室内に逃げ込んでくる。ナミが後五分、と言った。その合間もあの音が船を揺らし続けている。ひいい、と骨を震わせたのはブルックだった。だいじょうぶだ、すぐに静まる。この音だけは慣れません。みんなそうだ一部を除いて。船長の緩んだ口元から白い歯がきらりと輝いた。
「海が怒ってる」
 ルフィが笑う。それに合わせて唇が震えた。だいじょうぶだ、だいじょうぶ。繰り返し言った。 あ!洗濯物!ナミが立ち上がって出て行こうとしたのを制し、代わりとばかりに外に出た。同時にまた音が鳴る。どおん。ちょうど階段を昇ってくるゾロと鉢合わせる。おい、もう降ってくるぞ。振り向かず返した。ああすぐ戻る。
 洗濯物を干してある竿から衣服を籠へと映していく。海の鳴き声が少し遠ざかったかと思えば、最後の衣服に手を掛けた瞬間、ピカリと船全体が光った。暗い海が大きな波を連れてきた。どおん、最後にひとつ音が鳴る。雨が降り出す前にと衣服をもぎ取ろうとしたとき、洗濯ばさみに指を挟んだが構わず籠を持って室内へと急いだ。雨雲が船上に影をつくっていた。ぽつぽつと雨が降り始め、あっというまに土砂降りとなった。洗濯物は無事です。ナミにそう笑いかけて再びカウンターの内側に入った。珈琲をそそいでいく。均等に、均等に。湯気が昇り、温もりが部屋を充満していくこの過程を愛してやまない。皆も知っている、海から遠ざかるこのひととき。全員に配り終えて、ああ、と言う。それが飲み始めの合図のように皆がそれぞれ口をつける。端に腰掛けていた男も同様に口をつけようとしたその瞬間に、それを遮る。訝しげに見上げてきた視線を無視し、ひとつの四角い固まりを中に落とした。おれは甘いのは嫌いだって、言いかけて口を噤んでいる。匙を手渡す。たまには糖分取りやがれ。黙ってそれを受け取った後、角砂糖が完全に崩れるまで掻き混ぜている。一口啜り、眉間に皺を寄せて舌打ちをした。頬杖をつきながら、バカやろうが、と呟いた。砕けた砂糖が濃い茶色に溶けて渦巻いている。ばかやろうはお前だ、もうひとつ角砂糖を加えてやった。
「海の怒りが静まったぞ」
ルフィが言った。白い歯をきらりと光らせて、そう言った。
だいじょうぶだって言ったろ。強く頷いてみせた。
ししし、とルフィが笑う。海の怒りが静まった。ただそれだけのこと。
残された雨だけが静かに窓を叩いている。
卓上に乗っている麦藁帽子をふいに見つめた。
甘くて飲めねェよ、おまえにやる。珈琲がルフィに譲られる。
ばかやろうが、もう一度呟いた。ゾロが笑う。わらう。

 どおん。鎮まった筈のあの音が耳の奥で鳴った。ふと痛みが指先に走り、見ると血がぷつりと溢れている。いつ傷つけたのか思い出そうとしても思い出せなかった。

2009.02.04/夢じゃない