夜食べたものを思い出す。かりっと焼いた白身魚にトマトソースがかかったもの、冷たくてどろりとした南瓜スープ、後はルフィ用にひたすら肉の塊が卓上でぷるぷると光っていた。鼻の穴からは珈琲の匂いが入り込み、まぶたの奥では帯のような光があかく揺らめいていた。微かに目を開けながらゾロはカウンターの向こうでサンジが動いているのを眺めた。素早い手つきで食器を洗っていたかと思うと、ボウルに何やら粉の類をふるい其処に湯を流しこんで両手で勢いよく捏ねている。液状だったものが固まっていく過程を眺め、サンジの袖をめくりあげたところの筋肉が動くのや指の隙間を埋める白いものに意識が向かう。固まったのを更に捏ねてから暫く置いてラップでそれを包んでいるとき、そのサンジの手元をルフィが覗き込む。明日のだよ、とサンジは言い伸ばされたルフィの手を払う。ピザね。ロビンがくすっと笑う。頷くサンジの首筋を汗が伝い、ゾロの爪先のちかくに滴り落ちた。眠気が耳の裏側あたりから忍び寄りゾロは目を閉じる。先程まで眺めていた夜の海が眼前に揺れている気がした。
夕暮れから夜にかけての海の変化を見ていた。てらてらと輝いていた海は光を失った途端、暗闇の中で静かに鼓動するだけのものとなった。右腕に負荷をかけたまま、息を詰めて太陽が落ちきるまでじっと見ていた。左足首で支えていたバーベルを落としてから、夜を迎えたサニー号の船首に目をやった。大きな影がじっとりと船にかぶさっていく。船上を流れていく風に海賊旗がばっさばっさとはためいていた。顎から伝い落ちる汗を手のひらで拭いとる。うなじを風が撫ぜていき心地よかった。そこでふと喉が渇いていると思い、水を飲もうとダイニングへと足を向けた。中に入るとカウンターの向こうで視線をあげたサンジと目が合った。じゅわじゅわと何かを焼く音と腹を刺激する匂いに食欲の虫が疼いたので、体内時計はきちんと夜を指しているようだった。カウンターにルフィが突っ伏して寝息をたてているのを横目で見おろす。おい、水。短くそう告げると舌打ちが返され、グラスに水を注ぎいれる音。カウンターに雑に置かれて、中の水が飛び跳ねる。それをゾロは一気に飲み干した。喉を落ちる水は冷たく、喉仏が上下するのを感じながらゾロは濡れた唇を拭う。少しルフィの指先が動いた。サンジがコンロの火をとめ、そのルフィを見た。沈黙が背筋を伝い落ちていった。二人に背を向け、ゾロはダイニングを後にする。
暗がりに息を吐き出す。夜の水平線は昏く、船の輪郭を浮かびあがらせる。後ろ手に扉を閉めようとすると、その隙間からサンジの靴がぬっと姿をあらわす。目で問いかけると、そのまま凭れかかるようにして扉を閉め、煙草を取り出す。一服、とその唇が言う。一本を人差指と中指で挟み火をつけ、吸い込むと同時に闇に浮かぶ灯。サンジの吸う煙草の匂いは控えめで、しかしそのパッケージには死と記されていた。黒い太字でDEATHと表記されたのをゾロは見、そのまま再び海の方へと視線を移す。床に二人の影が伸びていた。サンジの指の影がカマキリのように見えた。風が吹く。背後で物音。ルフィが目を覚ましたのだと思った。煙草の先端からこぼれた灰がゾロの靴先で跳ねる。海を見ている視界端に、サンジの手があった。小指が風に揺れているのがわかった。ゾロは海を見ている。海だけを見ている。
水の流れる音、かちゃかちゃと皿同士がぶつかる気配。それらに混じって心臓がどくどくと耳のなかで脈打つのがやけにはっきりとわかった。すぐには目を開けられない。ぼそぼそとした話し声が、体重を預けている卓の振動を伝って耳にこもる。ルフィの声だった。目をゆたりと開きかかるが、光の凝集が眼球に押し寄せまた閉じてしまう。徐々に明瞭になる意識の片隅で、ルフィの声が遠ざかったり近くなったりするのを感じていた。海面からあがったり沈んだりと似ている。頭を預けていた腕が痺れて感覚がない。その指先に何かが触れて、それをきっかけに目をひらく気になった。ひらいたものの、視界はぼやけているので、指に触れたそれが冷めたであろう飲みかけの珈琲カップであることに疑いはなかった。しかし、それは珈琲ではなくなっていた。引き寄せてひとくち啜ると、舌は木の実の香りに包まれた。そっと喉奥を燃やすそれは、ゾロの好きな酒のひとつだった。おはようロロノアくん。酒瓶の置かれたそばに灰皿があり、煙草の残骸が積もっていた。そのしけもくをゾロは、掌に転がす。おは、よう、ゾロくん。握り締めるとまだ火が完全に消えていなかったのか皮膚に痛みが走った。聞いてんのかてめェ、煙草を指先で挟んだままのサンジの手が伸びてきて灰皿を奪っていった。灰がカウンターにぱらぱらとこぼれおちていく様子を眺めつつゾロは掌をひらく。聞こえてる。かすれ声が喉奥からこぼれた。茶黒い痕が掌と指の腹にこびりついていた。何時間寝たら気が済むんだおまえは。ぶつぶつと文句をこぼしながらカウンターに新たな皿をサンジは置く。白いプレート上に、ピザのひときれが載せられている。たっぷりとかけられたトマトソースがてかてかと光った。……ルフィの食いさしだ。摘みにしろよ。ゾロは酒を煽り、ピザに手を伸ばした。端からかぶりつくとバジルの匂いが鼻先をかすめた。最後のひとかけらを指ごと舐めとると煙草の味がした。指の腹についた灰を思い出し、その灰が喉を通っていくのを感じる。
まぶたの奥で光の帯が揺れている。それは夜の海を見ているときと同じであった。夕暮れから夜にかけての海の変化。光を失ったはずの海であるのに、ゾロのまなうらには何かが絶えず揺れている。煙草を挟む指先の小刻みな揺れのようだと思った。それを何かに似ていると感じたはずだった。思い出せずゾロは海を見るのと同じ目でサンジを見る。吐き出された煙のせいで曖昧にしか見えぬ指の輪郭。
二度と思い出すことはなかった。それは細く美しいカマキリの前肢に似ていた。
2011.07.03/カマキリ