一本目、明け方、甲板にて。カモメが過ぎていった風でなびいたのは、髪の毛、シャツの襟、くちびるから吐いた煙。シャツのボタンをふたつめまで外したときに微かに鼻先をかすめた匂いの正体はタマネギである。刻みすぎた。誰もいないキッチンに響きわたる包丁の上下運動が暫くは耳に残っていた。それが海をまえにしてゆっくりと蕩けていく。タマネギの染みついたゆびのあいだでぱたぱたと揺れている白いやつは、湿気にやられてヘタっている。それでも舌はいいかんじに癒されていたし、ちょうどよく朝日ものぼりきった。太陽とともに目覚めるのがうちの船長である。案の定、ハンモックが軋むのが波にまぎれて聞こえてきやがる。短すぎる朝の一服、最後に深く吸い込むと目のさきで赤がすぼまる。
 ……タマネギの味だといえなくもない。


 四本目、くわえたまま、皿を洗いながら。「サンジぃ」、流れおちる水にまぎれて呼ばれたらしいから顔をあげたら、ウソップが追加の皿をもってきた。「浸けていいか」 「おう、そっち」 顎で示したところに皿を沈められるのを見届けてから、洗剤をそこに足す。
「さっきから呼んでんのに」
「水だしてると聞こえねェ」
 ふと、荒れ狂う海に飲み込まれたときに見た、一筋のひかりのようなものが、まなうらで明滅した。見おろしたところに、水のなかでつるりと光る皿。そのまるみが手から滑り落ちるまで、ジジイのちぎれた足のことを思ったりしていた。そこから点々と降ってきた、血の道標のことを。
「ムカデに刺されたんだってよ」
 手から皿を抜き取られたかと思うと、拭くよ、と布巾をかかげたウソップの手とかすかにぶつかる。濡れた皿を丁寧に拭きとっていきながら、「足の甲んとこに、ずぶっと」、とけらけら笑っているウソップに、今さらちゃんと聞いてなかったと伝えるのがどうにも面倒くさく、適当に相槌をうつ。
「ゴムなのに」
「なんだ、ルフィの話かよ」
「さっきからそう言ってんじゃねェか」
 何枚目かわからぬ皿をウソップに引き継ぎながら、一本とってくれ、と話題を変える。こちらの視線を辿って動いたウソップの目がカウンター端のハコにとまり、それを引き寄せた。みじかくなったやつが、くちびるからシンクへと落ちていった。流れ落ちる水によって赤が掻き消され、ぐじゅぐじゅに潰れていく。ほらよ、と本日五本目のものをくちびるに当てられ、口内に迎え入れる。「火は?」、「ああ、胸ポケット」、身体を向こうに突き出すと、ウソップのゆびさきにそこを探られる。腹のあたりに冷たい感触が染み、水に濡れたことを知る。夏の気候の海だから、すぐに乾くだろう。ウソップのゆびがライターにかかったところで、
「ウソップ、見ろ!つかまえた!」
 ムカデを鷲掴みにしたルフィが、あらわれた。
「んおっ!かわいいなそいつ」
 ウソップの手からライターが滑り落ち、かちゃんと倒れる。そのままムカデに夢中になった野郎ふたり。くちびるにくわえたままのソレは、まっしろのまま、中途半端に取り残された。ムカデに刺されたというルフィの足の甲をあとで見てやろうと、泡まみれの手でライターを掴んだ。ぬるぬるで滑る。


 七本目、ひらいた本のすぐ近く、灰皿。彼女のゆびがページをめくるのに合わせトントンと灰を落とす。真昼のひかりが部屋の中ほどまで差し込むなかで、彼女の瞳はまるで夜のままだった。時おり思いだしたようにティーカップの取っ手にゆびをひっかけ、くちびるへともっていく。紅茶からあふれる湯気が視界を邪魔したようで、すこしだけ夜の瞳がすうと真横に伸びた。ページに手を置いたまま、目線がそこからすぐそばの灰皿へとうつったので、「あ、悪い、煙かった?」、と遠ざけようとすると、瞳がそれを拒んだ。
 本に視線を落とした彼女が文字をゆびで辿るそこに影が落ちる。耳のふちをすべっていく髪の毛。底をつきかけていたカップに熱いのをそそぎいれると澱んでいたミルクが渦を巻いた。紅茶の海に映りこむ金髪がうまそうに煙をふかしている。彼女のながい指先がページの角をつまみあげるたび、視界のすみで文字が走った。ロビンちゃん、と意味もなく呼んだら、彼女の指先からページがふわりとめくれあがっていった。くちびるがゆるんだせいで落としてしまいそうになったやつを咄嗟に噛み潰す。
「ロビンちゃん、眠いんだろ」
 彼女の黒髪が本のページに毛先から吸いついていった。どうやら、ビンゴ。


 十二本目、だらだら垂れおちる鼻血のせいで、くそまずいのです。しかも、となりにいらっしゃるのはクソ野郎なので。憎いぐらいの青空。地面にころがった刀の切っ先が光っています。くちびるのあわいから吐きだした煙は途切れがちに、それでも風にのっかって。立ちあがるのも億劫で、大地に這いつくばったまま鼻の穴をくすぐる潮の匂いを嗅いでいたりして。海はちかい。いつだって、ちかい。海賊ですからね。となりにいらっしゃるクソ野郎は一瞬だけこちらに瞳を流したあと、「鼻血でてんぞ」、と今さらな指摘をした。わかってんだよ、そんなこと。バカといるのは疲れる。上唇を染める赤い血がだんだんと固まってきやがって、ひらこうとするたび剥がれる感触がして、サイアクな気分だった。すっきりしない。雑魚はみんな逃げてった。坂のてっぺんから見おろせるのは青い海だけだった。そこに俺たちの帰る船がある。それなのに先に立ちあがったクソ野郎のバカがまったくべつの方向へ一歩目を踏み出したので、つっこむべきかどうか迷って、とりあえず口もとの火を揉み消した。「おいバカ、そっちじゃない」


 十七本目、フランキーのつぎからつぎへと変化を遂げる髪型をぼうっと眺めながら、秋の気配。ナミさんに尋ねてみたら、ちがうという答えが返ってきた。カウンターでペペロンチーノをフォークに巻きつけているブルックが口ずさんでいる歌なんかもいつのまにか耳に馴染みはじめている。フランキーの髪型がみつあみになった。笑い声。グラスをひとつひとつ丁寧に磨きすぎて見るものすべて透きとおっているように感じる。きれいなグラスの底に灰が落ちていったことに気づかないまま、それにそそがれた酒をゾロが飲む。また、笑い声。フランキーのつぎの髪型は、なんか、よくわからないやつ。メシ、どうするかな、とそろそろ考えはじめる。天気、気温、体調、栄養、気分、雰囲気なんかも。磨くグラスが、なくなった。十八本目に手が伸びて、それをゆびにはさんだまま火はつけずにいる。フランキーのつぎの髪型を予測したりなんかして。


 二十九本目、ナミさんの髪が潮風に揺れていた。ときどき海の様子を見にくる彼女を目にいれながらの一服は、至福のひととき。髪がみじかかった頃も、二年経って伸びた今も。彼女を透かす夕焼け、飛び交う海鳥、肌を撫ぜる風のつよさも。二年前ここにあったものが今も変わらずあって、ルフィが笑えばナミさんも笑う。ふかく吸いこんで三十二本目。ナミさんの踵が浮いた。ルフィがまたバカをやってるらしい。浮いた踵と、体重を支える爪先。手すりに乗りだす彼女の姿が二年前のものと重なって、瞳のなかでひとつに混じりあう。ふいに甲板を襲った風は、彼女をすこしだけ振り向かせ、そのおかげでとびっきりの笑顔をみることができた。これで、サンジくん、なんて呼んでくれたら最高なんだが。ふかく、ふかく吸いこんで尽きてしまう三十二本目。もうすこし、凪いでいてくれよ。そう、ひっそり願う。この海に。


 三十七本目、背中についた蹄の痕を鏡に映す。船医によるお灸。「本当はタバコだってとめたいぐらいだ」、と滅多に云わないことを口にだすぐらい腹立っている様子。まぁ謝らないし、タバコだって吸うんだが。消毒液の匂いに包まれながら、こいつの大好物をつくる作戦を考えたりなんかして。オムライス。わたあめソースで。冷蔵庫をあけて振り向いたとき、包丁で野菜を刻んでいるとき、棚から鍋を出そうと背伸びしたとき、ひきつれるような痛みが走ったとして、それらに目ざとく気づくのだし、こいつは。そういうとき、なんとなくタバコを吸うのをやめて灰皿で揉み潰し、出来たてのオムライスを差しだして「食え」とか云ってみたり。似たようなことをここにいるクルーたちは皆やらかしているのだから、実に問題児だらけ。まぁ謝らないし、オムライスに気をとられてる隙に三十九本目を吸ってたりするんだが。


 五十六本目は船長のとなり。肩によりかかられているので身動きがとれず左手に持ち替えたタバコの灰をとんとんと落とす。肩のところで折れてる麦わらをそっと退かしたら、幼いひたいに船室から漏れだしたひかりが当たっていた。溜息を煙とともに吐きだす。いつだったか、「サンジのタバコは海の匂いがする」とルフィに云われたことがあった。そんなわけあるかと返したが、こちらの襟に鼻先を近づけて「ほら、する」と真顔で云われてしまえば、そのとおりになるのだった。血の匂いがすると云われればそうなるし、夜の匂いだと云われればそうなる。この船長のひとことで、どうにでもなる。ふいに、肩によりかかっていたルフィのあたまがずるりと滑って膝へと落ちた。その口もとが漏らす、ばかみたいな寝言。赤い先端がすぼまって、そこから落ちていった火が、ルフィの頬へと。ざざざんと波音。あと三本吸ったら、こいつを蹴り起こしてメシをつくろう。背中越しに聞こえてくるクルーたちの話し声、打ち寄せては引いていく波の音、海の匂いとすぐそばの寝息。そうして海のコックは、本日・五十九本目のタバコに火をつける。

2015.01.05/Heavy Smoker