塗ってあげる。太陽の色を吸い込んだ彼女の髪が、遠ざかる春の風によってはためいていた午後。塗ってあげる、と彼女は言った。その消えそうな優しい声にビビは胸をときめかせた。小窓の外で広がる緑がふわふわと揺れるたび、机上でもそれがざわめく。ビビはそれを見つめていた、指先にひやりとしたものを感じながら、只只、その机上をはしる煌きを見つめていた。彼女の睫がゆらゆら瞬く。彼女は丁寧にビビの爪に其れを塗っていく。どろりとした海の色が小さな容器から溢れてくる。身体中の穴がこの匂いに敏感に反応して、そしてそれに順応していく。忘れないでおこう、とビビはおもった。この匂いを、忘れないでおこう。
できあがり。彼女がわらった。ビビの足首から温もりが離れていった。両手足の爪が彼女に見えるように、ビビは掲げる。深いどろりとした海の色が二十本の指先に塗られていた。淡い照明の下では其れは暗く輝いて見えた。左手の親指の爪端に青の塊がうねっている。ビビが擦ると人差し指に其れはうつっていった。きもちわるくて、ビビはわらう。彼女が、あーあーと言いながらビビの指に息を吹きかけた。爪の上で固まっていた青の滴が飛ぶ。
ビビにその色は似合わなかったわね。彼女がティッシュで机に落ちた滴を拭き取りながら言った。ビビはどちらかというと、透きとおるような、そう其の髪の色がいいわ。彼女はビビの髪をじいと見て、うん其の色がいい、とわらった。その彼女の爪には蜜柑と同じ色がひかっている。次は其の色を探しにいきましょ。
ビビが部屋を出ると、すでに外は真っ暗で、先程夕闇のなかで揺れていたのは彼女の蜜柑畑だったのだと気付く。夜が境目を喪って、じゅぶり、じゅぶり、と海の底から這い上がってくる間隔に、ビビは身震いをした。夜の海に、メリー号の光が旗の如く揺れている。冷えてきた気温に、ビビはひとつくしゃみをこぼし、そうして自身の二十本の爪たちが不気味にわらっているのを感じていた。
2009.05.01/エナメルパレット