DOG FISH MORNING


 一匹の毛むくじゃらの犬と目が合う。
 サンジが抱える紙袋からは柑橘類の匂いがする。朝の冷たい空気に当てられゾロも徐々に目が覚めはじめていた。数日分の食料の入った袋を両腕に提げさせられ、石畳の坂道をのぼっていく。サンジの金髪が光を吸って反射していた。二人分の影が地面を這う。歪な形をした梨がサンジの持つ紙袋から飛び出ている。先程の犬が二人の後をついてくるのにゾロは気付いていた。犬は左足を引き摺るように、ひたひたと歩いた。はあはあと息を吐き出すのは犬なのか自分なのかわからなかった。サンジの視線を感じて顔をあげる。サンジは此方に背を向けているばかりでゾロの方を見てはいなかった。光と影のなかに交互に足を運んでいきながら坂道をのぼっていくのが、夢の続きを見ているようであった。

 店の主人が斑点つきの青みがかったチーズをナイフで切り取り、ホイルで包んでからサンジに手渡す。提示された金額にサンジは幾度か首を振りつつ、そのチーズの塊をゾロの方に寄越した。結構な重量が腕の中に沈むのを感じながらゾロが店の外を見やると、犬は其処にいた。地面に垂れた毛むくじゃらの隙間から、ぎょろりとした目だけがこちらをじっと見ていた。紙袋からチーズの匂いが溢れ出す。
 黒雲は自分たちを執拗に追ってきているように思えた。路地を駆け抜けているうち衣服も荷物もびしょ濡れになった。踏み込んだ先の水溜りから跳ねた水がサンジの膝元にかかり、飛んでくる盛大な文句。ぎゃいぎゃいやりあっているうちに逃げ込んだのは廃れたパブで、とりあえずなんでもいいからと中に入ると其処のカウンターにナミとウソップが居た。店の扉をひらくのと同時ガランガランと鳴り響くベルで二人が振り向き、あっと呟く。途端に猫撫で声をあげてナミに駆け寄っていくサンジを横目に、ゾロは腰をおろした。随分と雨に濡れたせいで身体全体が重ったるかった。荷物持ちさせられてやんの。ウソップがゾロのいる卓に近づき、笑いかける。うるせえ。ゾロは店員に適当に酒を頼み、買い込んだ食料品の山を床のうえに置いた。店内は雨に濡れた客ばかりで溢れかえっていた。饐えた匂いが鼻を突く。ピザに齧りつくウソップの唇からチーズが伸びていた。ゾロも皿からひときれ貰い、同じように齧りつくと同時タバスコの塊で噎せた。雨音が耳にこもる。店員が持ってきたウォッカを瓶ごと呷る。カウンターでサンジがタバコに灯をつけた。薄暗い場に、奇妙な影が生まれた。ナミの露出した肌が雨に濡れて光っていた。ウソップが愉快気に笑う。ゾロの喉にウォッカの熱が注がれる。あいつは、とゾロが聞くとウソップはさあと云った。どっかほっつき歩いてんだろ。指先でピーナッツの潰れる音がした。殻があたりに飛び散った。
 パブを出ると、熱で火照った身体は刃のような空気に晒される。雨跡が其処此処に浮かびあがり、乾いた靴が水を弾いて再び濡れる。雨上がりの澄んだ青空がゾロの瞼を焼いた。手を翳しながら水溜りを避けるようにして四人は歩く。サンジの吸うタバコから煙が絶えず後ろへと流れていく。風は、常に海の方から吹いてきている。あんた、まだ飲んでんの。ナミがゾロの手中の瓶を見て、呆れたように言う。紙袋の山は、ゾロの右腕ひとつで持たされている。てめえ半分持てよ。にやにやと覗き込んできたウソップに荷物を差し出す。そりゃおめえの仕事だろ。午前中あんだけ寝てたんだから体力有り余ってんでしょ。ですよねえナミさん、とサンジは首を傾げ笑う。それらが水溜りに映りこんでは通り過ぎていく。
 行きしなと同じ坂道に差し掛かったところで、まだ他に買い物のある三人とは別れる。「ただまっすぐに一本道を下っていくだけだ、海の方にな」サンジが何度も坂道の下を指差す。海だぞ!海!背後から飛んでくる三人の声に投げやりに返す。わあってるよ!振り返った眼に、逆光で眩むオレンジ。

 坂道をゆっくりと下っていく途中、目の前に飛び出してきた何かにぎょっとする。「……またお前かよ」 あの犬。へっへと垂れさがった舌が地面につきそうだった。雪が降ってきたのは、その直後である。可笑しな天気だった。雨降り、青空、雪。犬があとをついてくることには構わず、坂道を進む。胸に抱えていた紙袋からひょいと何かが飛び出てしまう。反射で伸ばした指先を弾いて、それは坂道を転がり落ちていった。一瞬、目で捉えたそれは梨だった。あっというまにゴロゴロゴロゴロと坂のしたへ。左手に持つビール瓶を唇に寄せる。濃い麦汁と泡が弾け、喉奥に生ぬるい炭酸が流れおちていく。
 坂のしたまで転がっていった梨を拾いあげたとき、耳朶は波の音で満ちた。メリー号と海が、眼前に迫っていた。石畳から砂浜へと足を踏み入れると、雪交じりの風が頬に吹きつけた。でらでらと照りつける海に目を細める。此方と彼方では季節が違って見えた。ルフィの麦わら帽子が風にはためく。潮の匂い。雪片が右から左へと流れていく。紙袋を砂浜におろし、ルフィの隣に立った。ルフィが顔をあげる。ゾロ、とルフィの唇が動く。潮風が二人の隙間を流れ去っていき、紙袋ががさがさと音を立てた。「ゾロの友達か?」「 は?」 ルフィの目線を辿ると、あの犬。「違ェよ」 腰をおろし、ざらざらとつめたい砂のなかに手を差し入れる。「ふうん」ルフィは犬の垂れ下がった尻尾を撫ぜて、腹減ったなあと言った。「そんなか食いモンか?」 ああ、とゾロは紙袋の中身を覗く。生のまま食べれそうなのはチーズと梨だけだったので、梨のほうを手に取る。まあ梨でもいいや。ルフィがゾロのほうに手を伸ばす。その梨をルフィの手に落すとき、視線が僅かに揺れたのを犬に見られたと思った。犬の目だけを凝視してしまった。ルフィはなんでもないように梨を受け取り、齧りとる。ルフィの白い歯が梨に食い込むのを見た。ルフィがふと目線をあげた。それ一口くれ。胸がざわつきゾロは海を見ながら左手に持っていた瓶をルフィに手渡す。冬鳥の群れが海から迫ってきていた。背後でルフィの喉の鳴るのが聞こえる。冬鳥たちの輪郭が次第に鮮明になる。「DOG、FISH。」ルフィが瓶のラベルを読み上げた。そのとき小指に生暖かい感触が這うのを感じた。青を映したルフィの瞳と目が合う。ゾロの小指を甘噛みしているのは桃色の犬の舌。

2012.03.16/DOG FISH