皿をすべて洗い終えるとサンジは出していた水を止めた。音が無くなるときいんと夜が広がるようだった。波の動きに合わせて船が揺れるのが足元から伝わる。カウンターに置いた手がひんやりと冷たくて、穏やかな夜だと思った。胸ポケットから煙草のパッケージを取り出し一本出してから火をつける。煙を吸い込んだときに、忘れていた口内の腫れがじくりと痛んだ。昼間ルフィに殴られたときのものだとサンジは気付き、気付くと銜えたフィルターから滲む味が途端に苦く感じる。
 電気を消しドアノブを捻る。一歩出るとむうとした空気に迎えられ、触れたらいけないとチョッパーに念押しされた口内の腫れ痕を指で突付くとその隙間から湿気混じりの風が入り込みざわざわする。ごまかすように煙草を噛みしめながら部屋に行こうとしたところで、男部屋から誰かが出てくる気配があった。その姿が見える前にすでにサンジはそれがルフィだと気付いていたので、少し逡巡してから立ち止まった。やがてルフィの姿が見えた。階段の下からルフィはサンジを見据えている。その目が真夜中にしてはあまりにも強くサンジを射抜いた。
 潮風が船を削るように吹き荒んでいる。ルフィは階段をのぼると、目尻を擦りながら言った。なんか目覚めちまってさ、そしたらサンジいねえから。今戻ろうとしてたところだ。そっか、いつもこんな遅くまで起きてんだな。風に煽られる前髪の隙間からルフィが見つめているのはサンジの口元だった。サンジはそれに気付き、すっかり短くなってしまった煙草を銜え直す。そのとき頬の内側の腫れの所為で歯が当たるのを感じた。それ痛ェか。ルフィがサンジの頬を指した。痛くねェよ。だよなあと笑うその笑い方がルフィらしからぬものだったのでぐうと息が詰まった。嘘だよ痛いに決まってんだろ。サンジを見るルフィの目が光っている。言わされたのかもしれない、とサンジは思った。ふと海鳴りの音がした。サンジの耳の中でごうごうというその音が篭った。ルフィの目から逃れようがない。
 昼間に船の行く先で海軍と遭遇した。出くわしたのと同時、問答無用で攻撃してきたのでクルー達もそれを迎え撃った。大砲が飛んでくるたびに斬ったり撃ち返したりと騒がしい中、一本の槍がサンジ目掛けて飛んできた。それを避けてから船に刺さった槍を振り返ると、じゅわじゅわと槍先が泡立っている。毒だとサンジは気付いた。海軍の船を見ると、その槍を持った海兵達が一斉にそれを投げ込もうとしている。その矛先にいるルフィは違う船から飛んでくる大砲を跳ね返しており、気付かない。槍が此方に飛んでくる刹那サンジの声に振り向いたルフィと目が合う。ルフィの瞳孔が揺らぐのが見えた。サンジは何も考えず突っ込んでいきルフィを蹴り飛ばした。そして飛んできた大量の槍を跳ね返そうとして足を滑らせそのまま槍と共に海に落ちていく。海面に叩きつけられサンジは少しうめいた。そのとき共に沈んだ槍から紫色の毒が海に溶けていくのが目に入った。
 ある程度沈んだところで浮上しようとしたとき、誰かが船から飛び込んでくるのが見えた。海中で目を凝らしてみると、それはルフィだった。思考が急激に冷え、反射的に水を掻く。あっというまに沈んでいくルフィを抱き上げ一気に海面に浮上した。空気を吸い込み、声を張る。バカかてめえ!更に飛び込もうとしていたゾロがそれを見て息を吐き出している。海軍の船が他のクルー達の手によって沈められているのを確認してから船にのぼり、ルフィを甲板に転がす。チョッパーが走り寄ってきて、毒大丈夫かと聞いた。ああ溶けた。答えながら見おろし、てめえは能力者なんだから考えろこっちの身にも、と言い終わる前に頬に衝撃が襲った。視界が反転し気付くと床に倒れ込んでいる。反射的に顔を上げると今度は自分がルフィに見下ろされていた。海水を飲み込んだのかルフィは咳き込む。呆然とルフィを見上げた。そのとき初めて殴られたのだと知った。今更になって頬に痛みが走る。黒髪からぽたぽたと水滴を落として立つルフィの背後では、クルー達が驚いたように目を見開いている。


 クルー達が島に上陸していく。碇を下ろしているとウソップが近寄ってきた。平和そうな島でよかったぜええ。……わかんねえぞまだ。にやにやとサンジは笑い返す。びびらせんなよ、ウソップは蒼褪め肩を震わせている。そのときはサンジくん守ってね。いいからおまえもさっさと行け。その背中をぽんと蹴ると、躓きながらもウソップは船をおりようと梯子に手を掛ける。そのとき少し逡巡するように首を彷徨わせてからウソップは振り返った。 ……昨日ルフィ怒っただろ。あれさあちょっと羨ましかったよ、にひ、と白い歯を見せて笑ってからウソップはおりていった。サンジはその背を目で追う。……お前にだってそうだよあいつは。
 サンジもそのまま海に飛び込み浅瀬をゆっくり歩く。視線の先にルフィが立っていて、ルフィの足首が波によって見えたり隠れたりしている。ルフィ。静かに呼び掛けた。振り向く男から潮風の匂いがし、ああルフィの匂いそのものだと思った。
 殴れ。おれは何度でも同じことをする、仕方ねえだろ勝手に動いちまうんだ、おれは変われねえよ。サンジの声は少し波音に掻き消されたようだった。それでもルフィに届いたような気がした。ルフィの瞳に、海とサンジ。その青々と燃えるルフィの目を見ていると、どちらが陸か海かわからなくなってしまいそうだった。

2010.08.03/あなたが海岸線