歯を磨いているときに足の裏がべったり床に吸いつく感じがしたのは気のせいではなかったみたいだ。テレビに映し出された日本地図、傘マークは午後からになっていたけれど、いちど玄関から顔をだして鼻をひくつかせるとカビくさい匂いがした。傘立てから一本抜き取って家を出てから暫くすると、案の定、鼻のあたまがぽつんと濡れた。顔をあげた先、灰色の空から落ちてきた雨粒がひたいや頬にかかって瞬きをする。ジャンプ傘をひろげて、次第に色を変えていく道のうえを一気に駆け抜けていった。
  今日のツッキーはハリセンボン型だった。おはようツッキー、とその背中に挨拶をすると、ひどく面倒そうに振りかえるツッキーの気配は重たい。おはよう。溜息混じりの挨拶が返ってきたことでもう大体のことは察していたけれど、ツッキーの隣に並んでその胸元を窺うと、やっぱりハリセンボン型だった。「傘もってきてないの?」 ツッキーの学ランがすっかり雨を染みこんで光っていたので、腕を伸ばして傘のなかにいれる。「いやいい、もう、すぐそこだし」 ひょいと傘から抜けたツッキーが生徒たちに紛れて校門に吸い込まれていった。追いついたときにはもう校舎の入口で、入る前にぶんぶん振って滴をあたりに散らしてからそっと傘を閉じた。階段をのぼっている最中に、ツッキーが「折りたたみ持ってきてるから」と云ったので、「なんで差さないの」と返すと、「面倒くさい」とキた。そのツッキーの胸元に、バレーボールぐらいの大きさの球体が透けて見えて、そこからびっしりとトゲが突き出ている。目を凝らしてじっと見つめていたら、少しずつそのトゲの数が増えてきていることがわかる。無数のトゲの隙間からまた新たなトゲが飛び出し、球体はくるくると回りつづけている。バレーに関することでなにかあった翌日は、このハリセンボンのかたちをしていることが多かった。神経が張り詰めていて、生やしたトゲでびっちりとガードしているのだと思う。今そのおおもとの原因はあの変人コンビにある。

 放課後が近づくにつれてますます雨足はひどくなり、ツッキーのハリセンボンのこころはぶくぶくと膨れあがって今にも破裂しそうだった。体育館に向かう道すがらツッキーの肩甲骨が浮いているあたりをじっと目で追っていたら、窓を濡らす雨足がますます強まっていくのを感じた。いつも何かを云わなくてはならないと思うのに喉にはりつく言葉にならない思惟たちは結局のところつっかえてばかりで吐き出されることのないまま、ツッキーの少しうしろをついていくしかない。窓に視線を投げたその瞬間に金色が走る。遅れてやってきた耳をつんざく破滅的な雷音はハリセンボンのかたちを歪め、ぎゅっと収縮したかと思うと、ぱんっと目の前で弾け散った。ツッキーが、何してんのと振りかえる。そのこころは弾けたせいで縮んでしまっていた。ごめんと首を振ってごまかしたけれど、ツッキーの胸元から目が離せなかった。どうか何も起りませんようにどうかどうかどうか。そればかりを強く願っていたのにそういうときに限って真っ先に出くわすのが日向影山の変人コンビだった。このふたりはいつだってこちらより先に体育館にいた。底なしの体力で動きつづける日向の音が体育館の床を擦っていくそのうしろで、ツッキーの睫毛が下を向く。そのときあの貪欲な目で影山が、「月島」と呼んでボールを日向に押しつけこちらに近づいてくる。ツッキーの胸元がぶるっと震え、またぶくぶくと膨らんだそこから数本のトゲがにゅっと生えてきて、ああやばい影山どうせお前はバレーのことしか考えてないだろうけど今それをツッキーにおしつけるのはやばい、と迫り来るバケモノに背筋が凍りつく。ツッキーはなんでもないかおをしているけれど胸元のソレはもうバレーボルの大きさにまで膨れあがって影山との距離が縮まるたびにトゲが確実に増えていっている。防衛本能。影山のこめかみに薄っすらと汗が浮いているのが見えたその瞬間、体育館がさっと光に包まれた。「おっ、お前らはっえーな!」 田中さんのばかでかい声と空を引き裂くかのような轟音が鳴り響いたのはほぼ同時で、その場にいる全員の肩が跳ねあがった。ひょっえー、ひょっえー、ぎょおっ、田中さんと日向の奇声に遮られてしまったのかツッキーのこころはそれ以上膨らむのをやめてしまった。日向の手からこぼれたボールを拾いあげて撫ぜている影山をツッキーはじっと見ていた。その日はもう、ツッキーのこころからトゲが抜け落ちることはなかった。

 今日のツッキーは三角形だった。ツッキーの耳にかけられた眼鏡のつるのあたり、ここからではそのこころの尖ったところがかろうじて見えるだけ。だけどそのこころは時々砕けて教室中に散らばるものだから、ツッキーのかけらが至るところで光っているのが苦しい。シャーペンをすべらすノートのすみ、そこにちいさな三角形がやってきたときにはいっそ触れてみたかったし何処にもいかないようにしたかった。教師に当てられ問4を答えるあいだに三角形はツッキーのところへ帰っていってしまったから、すこしでも覚えていようと定規をつかってノートに三角形をひいた。うまくひけない。
 昼休み、ひとつのつくえを挟んで向こう側にいるツッキーはヘッドホンを外さないまま肘をつき、その瞼は伏せられている。目の前で、ゆっくりと回転している三角形のこころ。それは近くでみると透けていて今にも消え入りそうで、それでもけっして軽くはない。
「昨日、影山なに云おうとしたんだろ」
 思わずつぶやいたらツッキーの目線はあがったけれどヘッドホンに邪魔されて言葉は届いていないようだった。三角形がゆるやかだったせいで強気になって声を張ったらツッキーはヘッドホンを外して「うるさい山口」と吐いた。ごめんツッキー。いつもうまくかたちにできなくてああ失敗また失敗と心で溜息を吐き、目の前で揺れる三角形に触れてみたい衝動を押し殺す。傷つけるのはだめだ、ぜったい駄目。
 またしてもそんなタイミングであらわれる日向である。露骨にかおをしかめたツッキーのかわりに日向の勉強をみることになって、そのあいだもツッキーのこころはすぐそばにあって、ノートに書きこまれていく日向のつよい筆跡を見おろしながら口にだした、もうひとりの名前。
「……影山は?」
「なんかいなかった」
 三角形がぐにゃんとかたちを変え、円錐へと生まれ変わった。その切っ先は日向に向けられ、今にも刺してしまいそうな鋭さだったので。ああ、そっか。やっぱり。
「そこ間違ってるけど」
「えっどこ!」
 ぱっとあたまをあげた日向から飛びのいたこころはかたちを歪め、ぼこぼこと泡だったりグニャグニャと歪んだりして定まることがなかった。嫌味で日向のことを逆撫でしているツッキーのくちびるは笑っていたけれど、そのあいだもこころのかたちは変わりつづけ、まともに見ているのが辛かったのでそこから目を背けつづける。影山の名前をだすことで試そうとした自分の狡さからも。

 ツッキーのこころのかたちがはじめて目に見えるようになったのは、「あの日」から数日経った夕暮れの帰り道だった。ツッキーと自分のあいだでぷかぷかと浮いているそれは欠けた満月のようなかたちをしていた。まぶたがぼっと燃えあがって、次の瞬間には目尻からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。「え、なんで泣くの」 わけがわからないというふうにツッキーが後ずさる。だってツッキー、だって、でこぼこで穴もあいていて傷だらけで、何故だかはわからないけれどそれがひどく苦しい、そう云いたいのに喉がつっかえて言葉にできず嗚咽だけがひっと漏れた。目の前に浮かぶそれはツッキーにそっくりだったから。俺がツッキーに抱く印象そのものだったから。つよくて、光っていて、でもひどくかなしいきもちにさせる。ただひたすらに胸がくるしかった。ツッキーの胸元のそれは、でこぼこで穴もあいていて傷だらけだったけれど、ぽうっと仄かなひかりを灯しているのだった。それはまるで夜空に浮かんだ満月とおなじかたちをしていた。すこし欠けているけど、あとすこしで、あとすこしのことで満ちる。そのためになにが必要なのかは今はちっともわからないけれど、ツッキーがそのかけらを見つけるまで、俺がずっとそばにいよう。ちいさな決意を秘めてイヒっと笑いかけると、「……山口きもちわるい」と後ずされてしまった思い出。
 欠けた月のこころを見たのはあの一度きりで、そのあとはハリセンボンのような鋭いトゲで護っている日もあれば、生まれる寸前のタマゴのようにひっそりとしている日もある。三角形でゆらゆらしている日もあれば、円錐で攻撃的になることもあるし、菱形の穏やかな日もあった。六角形や平行四辺形になるとお手上げで、それがなにをあらわしているのか読みとれない。そうやって、ほんとうの月のこころは隠された。

 自主練を終えて汗臭い身体に夜風でも当てようと体育館から出たら、壁際にツッキーと影山が立っているのが見えて心臓がどくんと跳ねる。ひょっとあたまをひっこめて閉まっているほうの扉半分に背中をひっつけると汗でぬめったシャツが肌に吸いついた。何を話しているのかは聞こえないけれど、一瞬目に映ったツッキーのこころのかたちが眼球にはりついて離れず金縛りにあったみたいに身体が微塵も動かなかった。あんなかたちは、はじめて見た。まぶたのうらにはりついたそれから逃れられなくて、再開した練習にずっぷりとのめりこみ身体を酷使しつづけ、気づいたときにはみんな帰ったあとだった。
 顔を洗って戻ると、俺の荷物を抱えたツッキーが体育館の前で待っていてくれて本当ならとても嬉しいことのはずなのにうまく笑えなかった。とぼとぼと夜道を歩きながらツッキーの胸元を確認していつもと変わらないかたちに戻っていることに、そっと目を伏せる。疲れきった睫毛で道を進む自分の靴先を暗い気分で見おろしていると、ぼんっと何かにぶつかってそれはツッキーの背中だった。急にとまったツッキーは首だけで振り返って、「ソッチでしょ」と右の道を指差した。「あ、うん、ごめんぼーっとしてて」 別れ道にまで来ていたことにも気づかなかった、そのツッキーの真上に美しい満月が浮いていた。「満月だ」と思わずつぶやくとツッキーは首を振って、よく見なよとだけこぼして、ヘッドホンを耳につけた。ああ本当だ、まだすこし欠けている。ツッキーのこころはなだらかだった、俺とふたりきりでいるときはいつも。トゲが生えることも切っ先がこちらに向くことも一度たりともなかった。そんなことが嬉しくてどうしようもなくてここまできたけれど、それじゃあだめだ、だってツッキーのこころは隠れたままだ。でこぼこで穴があいていて傷だらけのはずのあのこころは、ずっと固い殻のなかに隠されたままだ。怖いのだ、そのなだらかな殻をつきやぶって傷つけてしまうのが、そばにいられなくなるのが、まだ俺には怖くてたまらないのだ。
「ツッキーまた明日!」
 イヒっと笑いかけると、昨日と同じ瞳でツッキーは、うんじゃあと云う。月明かりに映えるその姿をそっと眼球に焼きつけて違う道に足を踏み出し、やがて駆け足になった。日向の前ではこころが定まらなくなり不安定に変化しつづけた、無数のトゲで護らなければならないほど危険なのは影山だった、その影山の前でツッキーのこころは今までに見たことのないかたちになった、いつだってツッキーを変えるのはあいつらだった、俺じゃない、あいつらだった。それが悔しくて悔しくて声をだして泣きたかった。俺はツッキーのこころのかたちがわかるのに、痛いほどわかるのに、なにもしてやれない。ちくしょう。ちくしょう。

2014.04.29/陽にも影にもなれなくて