プヒィープヒィー。ブブブブブブ。鳴ったのはほぼ同時だった。スマートフォンを充電器からひっこ抜いて耳の穴におしつけながら、カタタタタと音をたてて上下するヤカンの蓋をばっと見た。「も、もしもし?」 湿気を含んだ裸足が床にひっついて、もつれそうだった。救急車のサイレン音がだぶって耳のなかにはいってきて、ん?と思う。沸騰するヤカンの前まできて、つまみに手をかけたところで、「……水谷?」聞こえてきた声に、動きがとまった。カタタタッタタ、浮きあがるヤカンの蓋からぶくぶくと溢れだし、コンロまわりが水浸しになっていく。つまみを捻って火をとめた。半分以上も溢れてしまった。 「……うん、どしたの?ああ、えっなんでだろーね、え、わざわざ?うん、今、家だけど、うん、じゃ取りいくわ」スマートフォンを離す際、耳のなかが濡れていることに気づく。通話終了に画面が切り替わって、それを刹那みおろした。ヤカンから湯気はでつづけていたし、エアコンを切っているせいで部屋のなかは蒸し風呂のようであったし、肌に吸いつくシャツがべっとりと濡れていた。眼前がぐにゃっと歪む。熱中症寸前。「阿部隆也」その名前がふっと消えてホーム画面の青い待ちうけに切り替わった。救急車のサイレンが近い。

 グウランドと入道雲と阿部。遠めでみてもぐっと喉が詰まりそうになって、ああ嫌だなあと足をとめ、靴紐を結びなおすふりをして暫く息を整えた。すると靴先に影がかぶさってサッと暗くなったのに、(あ。)心臓が跳ねた。「水谷」降ってきた声はもちろん阿部のもので、顔をあげないわけにはいかなかった。見あげた先、入道雲を背負った阿部がにこりともせずに突っ立っていた。いや、にこりなんてしてたら怖いけど。靴紐をきゅっと固く結んでから立ちあがると、阿部の喉仏が眼前に迫って反射的にそれから視線をずらす。「あべ痩せた?」「それはお前だろほっそい腕」そう云って阿部がごく自然に腕を掴んできたのに一瞬身体が強張ったのを、笑ってごまかす。触れられた箇所の熱は、暫くひいてくれそうになかった。
 高校時代に散々走り、打ち、投げてきたグラウンドを見渡していると、嫌でもあの頃の記憶が次から次へと頭に沸いてきて、金網にひっかけた指にぐっと力がこもる。あのベンチで食べた砂っぽい弁当の味や、あの木のしたでユニフォームをずりさげてふざけあったことや、ノックに駆けずりまわったダイヤモンド……。金網をにぎる腕も今のような不健康な色ではなく、こんがりと焼けていた。阿部が振り返り「水谷、」と呼んだ。あのときの阿部も入道雲を背負っていた。ああ嫌だなあ。
 ぬっと眼前に突き出されたライターを受け取る。「わざわざよかったのに」「いや高そうだったし」「500円」「えっ」 しゅぼっと火をつけて、くわえたタバコにかざす。阿部の視線を痛いほどに感じたが、気づかぬふりをして煙を吸った。「でもさ、半年前?だよね。阿部に会ったのって」この安物のライターを阿部のポケットにこっそり落としたのは、まだ肌寒い春の入りで、まさか半年も経ってから返ってくるとは思いもしなかった。「クリーニングに出したの忘れてて、ついこないだ出てきたんだよ」「えっばかなの?」 足を軽く蹴られて金網ががしゃりと鳴る。「でもよくわかったねオレのだって」無言。なぜそこで無言になる。やがてタバコも短くなってきた頃、沈黙に耐えがたくなって、かさついた唇をひらいた。「阿部このあとなんかあんの?」「いやべつに」「飯食ってく?」 少しの間があって頷いた阿部に背を向けて歩き出す。阿部の先を行くのは初めてかもしれない。背後に阿部の気配があるのは落ち着かなかった。背中を見ていたのはこちら側だった。いつも少しの距離をあけて、阿部の斜め後ろをふらふらと歩いた。クラスメイトで部活仲間。その距離をまもらなくてはいけないと思った。たとえ、阿部の秘密を知っていたとしても。
 アパートのしたのラーメン屋が美味いので、阿部をそこにつれていったら夕飯にはまだ早い時刻だったためかガラガラだった。テーブル席に向かい合わせで座り、運ばれてきたお冷を飲みながら、阿部の伏せた睫毛をぼうっと見つめた。互いにコップを持ちあげ一口含んでは置くというのを何回か繰り返すばかりで、あとは沈黙がつづいた。高校の頃、部活でも教室でもあれだけ毎日顔を合わせていたのに(もしかしたら他の部員の誰よりも一緒にいたかもしれない)、今となっては阿部となにを話していたかなんてまったくといっていいほど思い出せなかった。あの頃は沈黙なんてたいして気にならなかったし、暑いやら寒いやら疲れたやらねむいやらで十分だったし、あとはひたすら野球のはなし。阿部が食いつく話題なんて。でも今、野球を話題にするのは気がひけた。居心地の悪い沈黙に再びコップに手を伸ばしたところで阿部のほうが口をひらいた。「お前、今ひとりぐらしなんだっけ」「あ、うん、っていうかここのうえのアパート」「そうなの?」注文のラーメン半チャーセットがテーブルに置かれて一度口をつぐむ。ウマそう。阿部がつぶやいたのに、笑ってしまった。何? いや、なんでも。ごまかすように箸を掴み阿部のほうに差し向ける。「ウマそう」は今でも無意識に阿部のなかに残っているのか。それこそウマそうに麺をすする阿部に、唇だけで笑って麺をすくいとった。阿部は実家だっけ? おお。 器から溢れる湯気で汗がとまらない。がっついて食べていたからか舌がひりひりとしてきた。「飯とかお前つくれんの」「たまに、でも週末は実家で食わせてもらってる」「へえ」「実家のちかくでひとり暮らしってのがいちばん楽だよ」阿部の睫毛は伏せられたままで、たまにしかそれはあがらなかった。阿部の左のほうのまぶたにじっと目を凝らす。そこはもう完全に治っていて、あかくもあおくもなってはいなかった。そりゃ半年前だし消えてるか、新たに殴られない限りは。阿部がふいに視線をこちらに向けてきて、無意識の思考を振り払う。「部屋広い?」「いや狭いよ、なんなら見にくる?」 そこであからさまな間があって、視線がへんに交錯した。じゃあ、と阿部がつぶやいて、スープを蓮華ですくう。蓮華のうえで揺れている油がでらっと光った。

 阿部の髪に触れたことがある。帰り道コンビニの前でふざけて髪のなかに手をさしこんで、そろそろ切らなきゃだなァ、なんて軽いかんじで。つぎの瞬間、阿部のもっていた棒からアイスの塊が落ちていって、べしゃりと地面で弾けて潰れた。うわ、もったいな、阿部アイス、と顔をあげたところで飛び込んできた阿部の横顔に目を見開いた。それはひどく動揺していて、耳があかく染まっていて、なんというか、はじめてみる阿部の顔だった。阿部の瞳が揺れていたのはその一瞬で、すぐに元の無愛想なかおに戻り、お前が急に触るからだろーが、と文句をこぼした。あ、ごめん……。へらっと笑いながら、そのあとは黙々とアイスを食べつづけた。だけど頭のなかでは今みた阿部の表情が駆け巡り、まともに阿部のほうを見ることができなかった。なんだ今の……。女の子みたいだった。女の子がすきな男に触れられて頬を赤らめる、みたいな、そんな。そのときは気のせいだと言い聞かせていたけれど、それからも阿部は時折そういう素振りを隠しきれずに見せることがあって、気づかないわけにはいかなかった。阿部はそういうふうに、自分を見ている。同姓の友だちとしてでなく、いわゆるそういう対象として。阿部ってソッチだったのか、という考えにまず行き当たり、しかもその対象が自分に向いている?
 鍵穴に鍵をさしこみ、先に部屋のなかを適当に片付けてから阿部を中にいれた。玄関で足首を擦り合わせながらサンダルを脱ぐ阿部の気配がいやに背筋を伝っていって、部屋に差し込む夕日に足を滑らしそうになった。洗面所で男ふたり並んで手を洗う。ハンドソープのポンプを押して阿部の手のなかへ。つぎに自分へ。泡立せながら足元をみると、すぐそばに阿部の裸足。気づかれぬように少し距離をとる。「結構広いじゃん」「え、そう?」「知ってるやつのとこなんてもっと狭かったからな。洗濯機、台所にあったし」 緩んだ阿部の目尻が、鏡に映りこんでいた。知ってるやつ、ね。そのとき阿部の目線がふいに棚のほうに向いたかと思うと、その瞳がぐらり揺れた。目線を辿って、ああ、と思う。そこにはクレンジングや、クリーム、ジェル、下地、それら化粧品がぎっしりと並んでいた。半年前に別れた彼女のものだった。別に未練もなにもない捨てるのが面倒だっただけの、彼女の残りかす。今の彼女? ふいに阿部が聞いてきて、思わず見返すとすぐに視線がずらされる。「いや、いないよ。前の彼女の、ホラ飲み会んとき散々ゆってたでしょ」「そーだっけ」なんでもなかったように阿部はタオルで手を拭っていた。そのうしろに突っ立って、阿部の背中の隆起をじっと見つめる。濡れた手のひらで唇を覆った。きもちわるい。

 行くつもりのなかった飲み会の誘いに乗ったのは、まさにその日、七ヶ月付き合っていた彼女と別れたからだった。彼女は自分で別れを切り出しておきながら最後までぼろぼろと涙をこぼし、目のまわりをまっくろけにしていた。「なんか、違うの。思ってたのと違うの」何度もそう云われて嫌気がさしはじめていたので、早く出て行ってくれないかな、と無言を貫いていたら、最後にビンタが飛んできて目をぱちくりとさせて彼女を見た。「はじめは優しかったくせに」そう云い残して彼女は激しい音を立てて出て行った。あ、ブラ忘れてる……。床に丸まってへたっているそれを指でつまんで、また落とす。そっちだって、最初はねこかぶってたくせに。誰もいなくなった部屋でひとり呟いたとき携帯が震えた。それは泉からのメールで、「来ねーの?」とひとことだけあった。行く、と文字列をタッチしながら、ひどく疲れていることに気づく。「思ってたのと違うの」 そう云われるのは、これで何回目だろうか。
 泉、田島、栄口、巣山、まではよかった。だけど、そこに阿部がいるなんて思いもしなかった。「え、久しぶり」 咄嗟の上擦った挨拶に、阿部が、あーうん、と眼を合わすことなく返す。「何、お前ら久しぶりなの?」「……たぶん卒業以来?」「えっ!」田島のでかい声が耳をつんざいたけれど、メニュー表をめくる指はとめなかった。からあげ食いたいな。前のページに戻って、酒の種類を確認してから顔をあげると、まだ田島たちはメニューも見ずにだらだら喋っていた。「クラス一緒だったろ、仲悪かったりして」「仲良くはねーな」絡まれている阿部は左目に眼帯をしていた。誰かそれには突っ込まないのか。右隣の巣山が覗き込んできたので、メニューをそちらにずらしながら店員に向かって手をあげた。
 「えっ別れたの?」「あのかわいい子」「エリカちゃんだっけ」「エリナ」 ビールの泡を吸いながら、けだるく返す。「お前つづかねえな」 泉に鼻で笑われ、むっとなった。ジョッキを置いたら小指が右側にいる阿部の指に触れて、そっとずらす。つーか、なんで隣すわってんの……。眼帯のせいで表情は読み取れないし、黙々と飲んでいるし、絡みづらいし。数年ぶりに会う阿部はなんら変わっておらず(さっき確認したらアドレスさえ変わっていないらしい)、高校生のままの輪郭で酒を飲んでいた。「フラれたの今日だから慰めてくれていーよ」「今日?!」「栄口、だれか紹介して〜」「切替はやいな」 阿部は話に入ってくる気配がなく、それが救いだった。からあげを箸でつまんで齧りとる。先ほどから、からあげを食べているのはオレと阿部だけだった。最後の一個になったとき、阿部の箸が遠慮なくそれに伸びていった。

 あ、オレのからあげ発見。指さした先を、阿部の目線が辿っていく。教室の角に汚れた齧りかけのが無残に転がっていて、それは昼休みに箸のあいだから滑り落ちて見つからなかったからあげだった。阿部の箒が掃いたそれは、こちらの塵取りへと吸い込まれていく。しゃがみながら少しずつさがっていくのが、まるで阿部に追い詰められているようだった。無意識に塵取りを浮かせていたらしい。阿部の舌打ち。砂混じりのゴミが上履きの下に溜まっていた。阿部。なんだよ。オレといて楽しい? 阿部の箒が床をすべって机の脚にがつっと当たった。なんだそれ。阿部はあきらかに動揺していた。教室に差し込む夕日が阿部の半分をあかく染め、それをまともに見ていることなんてできなかった。立ちあがり、なんでもない、と唇をゆるくつりあげた。塵取りのなかのからあげが、またそこからぽろっと落ちていった。

 飲んだあとのノリでバッティングセンターに行き、ぎゃいぎゃいはしゃぎながらバットを散々振っていたら酔いなんて吹き飛んでしまった。あの頃の体力の半分もない今、早々に筋肉が悲鳴をあげだしたので、まだまだ遊び足りないといった風の田島たちが打ち続けてるのを横目でみながら、こっそり抜け出した。一階の人気のない喫煙室に行ってタバコを吸っているうち盛大な溜息がでてしまって、壁にずるずると凭れかかるようにしてしゃがみこんだ。つかれた。もうどーでもいいや。うとうとと、まぶたがさがってくるのを感じる。昨夜はずっと寝かせてもらえなかった。大体セックスのあとに別れ話ができる女のきもちがまったく理解できない。吸い取るだけ吸い取って、さよならですか。そうですか。「なんか違うの」「思ってたのと違うの」「はじめは優しかったくせに」 彼女のパンダみたいな涙目が脳のなかで揺れている。
 なにかがぶつかって擦れる音が外からきこえてきた。落ちかかっていたまぶたをあげる。つぎに、誰かの話し声。阿部だ……。うわ、なんでくるかな。嫌がらせですか。タバコを吸うようには見えなかったけど。どうやら誰かと電話をしているようで、ぼそぼそとした話し声が、すこし開いた扉の隙間から入り込んでくる。しゃがんでいるから、阿部は気づいていないと思う。「べつに怒ってないですよ、ただ吐きそうなんで、いやそんな飲んでないですけど、ん?今バッセンです、はあ?あれはアンタがやったんでしょーが、おかげで眼帯生活ですからね」阿部の話し声に、タバコを揺らす。「あれはアンタがやったんでしょーが、おかげで眼帯生活ですからね」はっきりと聞こえたそれに、意識がひっかかった。「もうわかったって、ちょっともうほんとに切っていいですか吐く、吐きそう」 そこで、何かが激しく落ちる音がして、反射的に振り向いた。静寂。迷ってから立ちあがり、そおっと扉をひらくと、阿部が壁に凭れて蹲っていた。携帯が床に落ちており、手首が折れたかたちのままぴくりとも動かない。阿部に近寄り、その肩におそるおそる触れると想像以上の温もりに手のひらがじっとりと吸いつく。「あべ?ちょっと大丈夫?」 覗き込むと、ゆたりと阿部の右目があがった。「……なにしてんのお前」「いやタバコ吸いに、」目を泳がせてから、そのような言い訳をこぼす。「ふうん吸うんだ」 阿部は青い顔をして壁にもたれたままゆっくりと息を吐き出した。「あべ酒よわいの?水かなんか買ってこようか?」 阿部はだるそうに目線をずらしたまま、「なんかお前やさしくて気持ち悪い」、と云った。一瞬の間。そのあとにイラっとなった。心底。「オレはいつでも優しいでしょーが」「は?どこが」 阿部がげほっと咳をひとつこぼすのと同時にそう云った。「お前がやさしかったことなんて一度もないだろ」 阿部の閉じている右のまぶたを、じっと見つめる。息がくるしくなってきた。右目から左目へと視点をずらしていく。そこを覆う白い眼帯。かつん、と爪先がそれに触れた。阿部が目をひらく。「これ、どうしたの」 阿部の黒目が左端に寄り、それから再びこちらに戻る。「……ものもらい」「へえ、見ていい?」 阿部の睫毛がばっとあがり、「は?」遅れて声が耳に届いた。「距離感できもちわるくなってんのかもしんないし、外したほうがいいって」言い訳じみたことがぼろぼろと唇からこぼれたときには既に、阿部の後頭部に手をまわしていた。結び目を解く瞬間、何故か彼女の背中に手をまわして下着を外したときのことが蘇った。あっさりと、それは外れた。白いものが手のなかに落ちて、(彼女の裸体が)阿部の左目が露になる。耳にはいってきていた雑音が、しん、と静まりかえるのを感じた。間近で見た阿部のまぶたは、青紫にぼっこりと腫れあがっていた。どう見ても、ものもらいとは別種のものに見えた。親指で、そのまぶたをなぞっていく。「水谷、」 そこで阿部が名前を呼んできたけれど、どうだってよかった。怒りに似た何かが奥底から噴き出しつづけ、どうしようもなかった。親指の腹で軽くおさえ、するすると撫ぜる。阿部が、やめろって、とあげた手首を掴み、さらに距離を縮めた。腫れているので半分しか開けていないソレが、すぐ近くで逸らされる。ごとり、と何かが自分のなかでずれるのを感じた。阿部。切羽詰った声が喉からこぼれたのを他人事のように聞いていた。「……オレのこと忘れてた?」
 阿部の両目が見開かれた。左目も懸命にひらこうとしていたが、ほとんどそれはあがらなかった。阿部の吐き出す息が鼻にあたったが、かまわず距離はそのままを保った。「忘れ、るわけないだろ」 ひどく苦しげに阿部が云った。おさえられない。そう思った瞬間には、もうだめだった。なかば衝動的に阿部のまぶたに唇で触れ、音をたてて吸っていた。阿部の肩が震えたのを感じる。ぎゅっと瞑られたソレに何度も唇をひっつけて吸う。薄っすらと唇をひらき舌先でなぞりあげる。高校時代の阿部がつぎからつぎへとフラッシュバックして喉が締めつけられそうにくるしい。「みずたに、待っ」 なにか云いかけた阿部の唇を手のひらで覆い、まぶたを愛撫しつづけた。手のひらに阿部の唇が擦れて、じんわりと熱くなっていく。壁についた右手の擦れる音。まぶたから離した唇を少しずつずらしていき、つぎに耳のなかを舌でなぞりあげると、指の隙間から阿部の声が漏れだした。女の子じゃない。阿部だ。あの阿部が。オレに触れられて、こんな声を。あおいまぶたが震えている、睫毛も、肩も、唇も。すべて震えている。唇を覆っていた手を離すと、阿部がゆたりと視線をあげた。左目は閉じられたままだった。もう、どうだってよかった。阿部の乾いた唇に触れたら、その女の子みたいな柔らかさに驚いたけれど、遠慮なく舌を口のなかへと捩じ込んだ。「ン、」漏れる声はまさに阿部のもので、ぞくりとする。逃げる舌を追いながら、そっと目をひらく。阿部のあおいまぶたが間近に見える。あの頃からずっと燻らせていた残像みたいなもの。あおく腫れあがった阿部への感情。今度こそ、本気で。阿部と関わるのは、これで最後だと思った。

 それなのに、この500円ライターひとつを理由に、阿部はオレのベッドのうえで寝そべりながら漫画を読んでいる。しゅぼっとやるたびにあらわれる、あかい火。窓ガラスを擦る、あかい夕日。会っていなかった月日は、途中で数えることをやめてしまった。すこしずつ過去になりつつある。阿部は、高校時代の残りかすだった。窓をずらしてベランダへと出て、やぶれたスリッパに足を通し、後ろ手で再び閉じた。手摺を擦りながらタバコを吸って、ああなんでこんなことになったんだろ、と繰り返し思う。タバコの先端から残りかすの灰が落ちて、手摺を黒く汚していく。のこりかすに、ずっと苦しめられている。吸い終えてから振り向くと、がちっと阿部と目が合った。えっ。動揺し、咄嗟にまだ生乾きの洗濯物を腕の中に取り込むという無駄な行動に走ってしまった。さっき干したばっかだよ……。胸に抱える洗濯物の隙間から部屋のなかをのぞくと、夕日に照らされあかくなった阿部が窓ガラスに手を掛けていた。「水谷、オレ帰るわ」 阿部の裸足が後ろへ一歩さがりかけたのを見おろすのと同時に手が伸びた。阿部の手首は細かった。半年前に握ったときよりも、さらに。「なんで」「いや、もう用事済んだし」阿部が戸惑ったように視線を逸らす。「ライター返しに?ほんとに?」 声が上擦りそうになるのをなんとか堪えて、さらに強く握りしめた。阿部のかおが一気にあかくなって、それはやがて怒りへと変わったようだった。強い力で手を振り払われそうになるのを押さえ込む。「っ、離せ!」 阿部の足が脛に向かって飛んでくるのを咄嗟に避けたら、阿部の裸足が床を滑って、ずるりとふたり一緒になってこけた。洗濯物が宙にふうわりと舞う。
 腰を打ちつけたらしい阿部は痛みに堪えるように眉間に皺を寄せていたが、覆いかぶさる影に気づいて目線をあげる。床に両手をついて、阿部の顔を間近で見おろした。逸らそうとした顎を掴んで、こちらに向かせる。「痛ェ」 阿部が苦し紛れにそう云うのが気に食わなかった。「痛いのすきなんじゃないの、普段どんな暴力プレイやってるわけ」「は?」「今もDV男と付き合ってんの?」「なにいって、」「あれだけまぶた青く腫れさせといて」「……お前なんか勘違いしてねーか、あれは」「うるさい」阿部の顎をもちあげ、唇をおしつけた。強い抵抗。固く閉じられているそこを舌で何度もなぞって無理やりひらかせる。「や、め」その声ごと掬いとって、舌を擦り合わせた。角度を変えながら噛みつくように。そのうち阿部の身体から力が抜けていき、諦めたように自ら唇をひらいた。そうして男を受け入れてきたのか。とんだ淫乱だな。阿部のシャツのなかに手を突っ込んで、脇腹をそっと撫ぜる。阿部が喉をのけぞらせた。息も継がせないほど無茶苦茶に口のなかを蹂躙していると、まぶたの裏側がちかっと光った。あかい。ああ、まただ。あまりにあかくて、また脳を駆け巡っていく残り滓。ベンチで食べた砂っぽい弁当の味、左翼側から見える阿部の反射する防具、授業中に視界にはいる阿部のうなじ、放課後の箒と塵取り、落ちたからあげ、三橋を見るときの緩む唇、触れた髪の毛のしたからのぞく耳、部室でいつも見ていた隆起した背骨、負け試合での滲む涙、たまにしか見せない笑った横顔、そしてあかい入道雲を背負った阿部が振り向いて「水谷」と呼ぶ眼差し、あのときいつも流れていた、『遠き山に日は落ちて』。
 はっとなって目をひらいた。あかいまぶたの阿部が唇から息をこぼして、こちらを見あげていた。耳のなかにはいってくるのは、『遠き山に日は落ちて』。夕方6時になると、このあたりに鳴り響くメロディが、今この部屋まで入り込んできていた。阿部がぼやけて、よく見えない。床にはりついた手のひらが熱い。
「阿部は特別だった」
「ずっと」
 云ってしまったら、みるみる阿部の輪郭が溶けていった。呼吸ができない。床に、手のしたに、阿部の頬に、伸びてくるのは、あかい残滓だった。残り滓。のこりかすがまだこんなところまで流れてきている。腹の底を這うように流れつづけている。涙が眼にあふれた。阿部の瞳がはっとなる。「水谷?」

2013.10.06/残り滓