英語のリード集なくした。あっけらかんとそう述べた水谷に相槌をうって巣山がノートを閉じると、挟まっていたシャーペンが転がっていき、机の角ぎりぎりでとまった。で、どーすんの英語って最終日だろ。どうしよう。知らねえよ。椅子を軋ませながら巣山は立ちあがると、勉強道具をとんっと揃えてバッグにむりやり押し込める。携帯の液晶で時刻を確かめていると、本屋って何時までだっけと、椅子を軋ませる水谷の影がぬうと伸びてくる。知らねえって。バッグに放り込んだ携帯で中のタオルが跳ねた。
 駅前の本屋のレジ奥ではニット帽を被った店員らしき男が携帯片手に大声で喚き散らしている。入口付近に置かれた古い漫画の一冊を手に取って、超なつかしーと言いながらパラパラと読み出した水谷の脛を巣山は蹴りあげる。リード集さがせよ。わかってるわかってる。奥に進むと店員の声が更に強く、その振動で埃が落ちてくるのではと感じるほどだった。あ、あった。積まれた辞書の横に黄ばんだ英語リード集が一冊だけ置かれてあった。水谷はその裏の値段を見て、埃を払った指の腹を擦り合わせた。赤点とって試合出れなくなるか金出すか選べよ。ヒヒと巣山が口角を上げた。うーん。水谷は暫し首を捻らせて考えていたかと思うと、やめたと言いながらリード集を元の位置に戻した。どうすんだよ、やめて。今から要るとこだけコピらせて。はあ?きゅっと鳴った水谷の靴底が反転して、本屋の埃まみれの床から夕日の照りつけるアスファルトへと滑っていった。
 いちお明日からテストなんだけど、巣山の声が掻き消される。ガタンゴトン。コピーなんてコンビニで出来るだろ。気分転換だって。膝に置いたピンクリュックに突っ伏す丸まった猫背。電車がカーブに入る。吊革が揺れて巣山のまぶたが落ちていく。携帯を取り出してムービーカメラに切り替えた。スタートと同時にピロリンと妙に大きい音が漏れ出て、それでもなんでもない顔。四角で切り取られた狭い画面には巣山のスニーカーと水谷のピンクリュックだけが鮮やかだった。ピロリン。停止ボタンとともに巣山のまぶたがあがる。進むごとに暗くなっていく車内、鉄橋に入るとまるで檻のなかのように、ぬめりと穴のあいた影が這い出す。額からまぶた、鼻筋へとおりてきて、やがて首筋へとおりていく。そうやって巣山の焼けた肌に幾十もの線が横切っていくのを、まぶたの奥に刻みつけた。


 図書室の隅で、本棚と本棚の狭間で、水谷は体育座りをして英文を解いている。巣山のリード集のコピーにシャーペンを走らせていく途中、何度もプリントの右下にぐりぐりと描いたマルはまるで消しカスの塊のように黒く歪にきらきらと光っている。ふいに視線を感じて顔をあげた先、本棚から一冊傾けたまま不審な顔をあらわにした女子生徒と目が合う。思わず耳に入れ込んだイヤフォンをさらに押し込み、携帯のボリュームを連打する。九十度で開いたまま床に置かれた携帯の画面のうえ、巣山のスニーカーと水谷のピンクリュックがぶれつづけている。
「水谷なにしてんの?」
 心臓が飛び跳ねたのと同時、咄嗟に携帯を閉じたのは田島の声がばかでかかったので。なんで地べたにいんだよ、と笑う田島の上履きがすぐそばの床を擦った。だって席埋まってて。ふうん。逆光の田島が屈んで床に尻をつけると、埃がひかりのなかを揺らめいた。いいな、あったけえ。手を後ろにつき図書室の高い天井を見あげている田島の横顔が透けて見える。携帯に触れたままの左手も、窓から差し込む光の当たっている背中も、嫌なかんじに熱をもっていた。ぴんと背筋を伸ばした田島のシャツがめくれて肌色が。そのまま立ちあがった田島が、床に転がる携帯に視線を流したのでシャー芯をばらまきそうになった。田島が図書室から去った後、水谷はリード集のコピーにマルを付け加えた。ぐりぐりと繰り返し執拗に黒い太いマルを。嫌になる。明日で試験が終わり春が来て桜が咲いて進級する。そして野球。土まみれの汗まみれの。嫌になる。携帯の液晶でぶれつづける映像。イヤフォンから微かに漏れでる音はかなしかった。何度もそれをリピートしながら水谷はシャーペンを走らせる。
 カタンタタン、ガタンゴトン。ガタン、ゴトン、ガタタン

2009.04.11/癖になる