最後の豚肉一枚を箸で掴むと阿部はそれで御飯を包み口の中に放り込んでから麦茶を飲み干す。そうして野菜炒めと御飯三杯を平らげてしまってから、食器をシンクに運び一息ついた。バラエティを見て笑う弟の隣で、同じように液晶を眺めていると瞼が次第に落ちてくる。頭の片隅では、今日の練習試合のスコアと三橋のピッチング内容とを延々と辿っていてテレビから漏れ出る音声が耳を抜けていく。キッチンから出てきた母親がスライス状のキウイをのせた皿を弟に渡している。はい、タカにもビタミン。阿部に手渡されたキウイはスライス状でもスプーンで掬うようにもされておらず、フォークに丸ごと突き刺されてあった。阿部はそれを受け取り、今日掃除したばかりであろうぴかぴかのフロアリングに落とさぬよう注意しながら齧りとった。欠けてバランスを無くしたキウイがフォークの根元まで落ちて阿部の手を冷やす。和室に置いてある扇風機の前に座り込んでいた弟をどけてから、首振りをとめる。風が肌に吹きつけ、風呂上がりの熱のこもった身体から水分を散らしていく。首に掛けたタオルで髪の毛をわしゃわしゃと拭いた。肘にある黒ずんだ瘡蓋がめくれかけている。爪先で掻くと少し痛みがあった。練習中につけた傷ではなかった。試合中に負った傷でもなかった。阿部は瘡蓋を手のひらでおさえ、扇風機の風量が強弱をもって時折唸る音を聞いていた。あっ兄ちゃん、携帯鳴ってたよ。弟に言われ、机に放ってあった携帯電話を見つける。ぱかぱかとライトが青色に点滅している。手にとってメール画面を開き、差出人に表示された名前とその内容に思わず現在の時刻を確認した。


 たばこ自販機から漏れる光に照らされて田島が立っていた。その傍らに置かれてある自転車を見て、阿部はまさかと田島に歩み寄りながら声を張った。
「おまえ、まさかこんな時間まで三橋つれまわしてたんじゃねえだろうな!」
 田島がびくっとなるのと同時、その手前の自販機に凭れかかってタバコを吸っていた金髪の男は、こちらを一瞥してから吸殻を灰皿に押しつけるとコンビニの中へと入って行った。阿部は思わず出してしまった声の大きさを少し後悔してから、田島に視線を戻す。
「び、っくりした」
 阿部の方に動いた田島の影が地面にぬめりと伸びた。田島が動いたせいかコンビニの自動扉が開いてしまい、中から冷房の涼しい風が流れてきて阿部のサンダルにとおした素足を冷やしていった。あべ声でっけー。田島は自転車のハンドルに掛けてあった袋を指差し、おつかいの帰りといった。いったん家帰って、頼まれた買出しついでにこのへんまわってきた。
「……あ、そ。」
 そのときスウェットのポケットのなかで携帯が震えた。取り出して画面に表示された名前を見おろす。
「誰?」田島が横からひょいと覗いてきたので、阿部はすぐまたポケットに戻す。
「あ、もしかして親?」
「いや言ってきた」
 阿部は持参した袋からスポーツ飲料のペットボトルを出し、田島に渡す。自分の分のペットボトルも出し、その下に入ったタッパーウェアを確認してから袋ごと田島に手渡した。
「うちの親からそっちの親に」
 透明の蓋ごしに佃煮の黒色が見えたのか田島はうまそうだと笑った。
 ペットボトルの蓋を捻る音がぱきりと鳴った。スポーツ飲料の白濁の液体が田島の喉に一気に吸い込まれていくのを見てから、阿部も飲み口に唇をつけた。風呂あがりで水分を欲していた身体に液体が染み渡っていくのを感じ、息を吐く。田島の方を見ると、既に半分近くもの液体が減っていた。自販機に灯る、売切という赤いランプがぶれて滲んで見える。田島がふいに阿部の方に近寄り、鼻先を首筋に寄せたので阿部は身体を引く。なんだよ。いー匂い、風呂はいった? もうとっくに入って寝るとこだったけど。田島と間近で目が合う。そっかごめん。田島の視線がゆたりと横にずれ、阿部がペットボトルを持つ手のあたりでとまった。「かさぶた」田島の呟きに、阿部はペットボトルの蓋を閉め、腕をおろす。ヘッスラしたときにな、と咄嗟に言葉が口からこぼれ出た。
「阿部、最近ヘッスラなんてしてたっけ?」
 再び、田島と目が合う。先程から妙に距離が近いなと思う。
「……してたよ」
 閉めたペットボトルの蓋を無意識にまた緩めている。


 押しつけられたのが偶々コンクリートの壁で、さらに細かい凹凸のあるものだったので阿部は少し呻いた。考える暇も与えられず、水谷の顔が間近に迫ってきていた。え。阿部の思考は一瞬でとまる。殴られると思って構えた身体は別の意味で硬直した。先程までの水谷との会話を脳内で繰り返す。いつもと同じだった。少しふざけ気味で、少し呆れ気味の、いつもと同じ水谷との距離感がそこにはあった。それが途中から奇妙な方向に歪んでいき喧嘩口調になり、面倒になった阿部の言葉で水谷の目付きが変わった。その目は怒りを孕んだものだったので、阿部はてっきり殴られると思った。しかし水谷は腕を振りあげることなく阿部の肩を壁におしつけ、至近距離で阿部の目を見ている。数秒間だけ押しあてられていた唇はすでに離されていた。全身が熱くなっているのを感じた。それなのに、水谷に掴まれている腕だけが妙に冷たくなっているような気がした。阿部。水谷が低い声で言う。その息が阿部の唇に当たる。
「そっちがオレのこと好きなんじゃん」
 阿部は目を見開いた。水谷の背後で太陽が燃えるように少しずつ沈んでいくのが見えた。
「阿部」
 水谷が阿部の眼のなかを覗こうとしている。水谷を蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。

「今日の試合、まあまあだったな」
 コンビニの自動扉が開くたび田島の視線があがる。ガラス窓にふたりの輪郭がぼやけて映りこんでいる。ペットボトルをへこませたり離したりしている田島の手が阿部の視界端で揺れ動く。三橋、調子よかったろ? 阿部は曖昧に頷きながらペットボトルの飲み口に唇を寄せる。何故か田島がそれに意識を集中しているような気がし、寄せた唇を離す。蓋を閉め、脇で挟むとひやりと冷たい。シャツが湿っていくのを感じると同時、ペットボトルから垂れた水滴が腕を伝い肘にまで達する。瘡蓋を意識せざるをえなかった。阿部の肘を見て、その皮の捲れた桃色の傷が、あの日にコンクリートで擦れたときのものであるとわかったとき、水谷は傷ついたような眼をした。何も言わなかった。言わせもしなかった。距離感はまた常時のふたりのものに戻り、本当に何もなかったかのように話しかけてくる水谷に阿部も平常心で接した。しかし会話の隙を見計らっては肘の傷に視線を落とす水谷に気付くたび、阿部の心臓は跳ねた。
 田島が財布を取り出し小銭を数えだす。
「なんか買うの?」
「うんアイス。阿部もいる?」
 いや、と首を振って田島の手のひらのうえで光を放つ硬貨を見おろす。その硬貨が田島の手に握り締められるまでに、奇妙な時間が過ぎた。田島が視線をあげ、阿部を捉える。
「明日、ひま?」
 田島が阿部の方に首を捻っているので、再び間近で目が合うこととなった。
 ……は?
「練習休みじゃん、だから」
 田島にしては珍しく早口だなと思った。だからなんだよ、と阿部が言い終える前に、それにかぶせるようにして田島は言った。
「オレと遊んでくんない?」
 阿部は田島をまじまじと見やってから、口を開いた。しかし何かをいう前に田島は「アイス買ってくる」とだけ言い置いて阿部の言葉を待たずしてコンビニの自動扉の奥へと入っていった。再び涼しい風が阿部の素足を撫ぜていく。手持ち無沙汰となって阿部は無意識にポケットから携帯を取り出し、待受画面にライトを点す。薄闇のなか白く点灯した光に眼球を刺され、阿部は目を細めた。着信履歴とメールがそれぞれに1件入っている。親指で操作し、着信履歴の方をまず確認する。先ほど携帯が震えた際に表示された名前を暫し見つめてから、次にメール画面を開く。一番上に表示された名前はやはり同じで、阿部はそっとそのメールを開いた。短い内容だった。
『明日、会える?』
 何処かで車のクラクションが鳴らされた。反射的に阿部は振り向き、道路を駆け抜けていくセダンを目で追った。異常なほど脈が速かった。田島がレジで精算しているのが見える。呼吸を整え、阿部は携帯の電源を切ってポケットに突っ込んでしまった。出てきて早々、袋をやぶってアイスを取り出している田島に阿部は近付く。「あっ食う?」口元に寄せられたアイスを避けて、明日、と阿部は早口に言った。
「暇だしいいよ」
 アイスの棒を阿部に差し出したまま田島は阿部を見あげた。
「うん」
 田島の手元のアイスが溶けて今にもこぼれ落ちそうだった。おい落ちる、と阿部は田島の手ごと重ねて棒を掴み持ちあげる。「あ、やべっ」慌てて田島はアイスを下から齧りとり、冷てえと舌を出す。その後、田島に具体的な待ち合わせ場所と時刻を告げられている間に阿部は肘から剥がれかけていた瘡蓋を指先で捲ってしまった。少しの痛みが走った後に指の腹を見ると、そこには薄い皮が乗っかっていた。傷の縁に薄く痕が残っているが、やがてそれも消えるだろう。田島に気付かれぬよう剥がした瘡蓋を地面に落とした。そのせいで阿部は、田島の言葉をひとつだけ聞き逃した。

2012.6.13/瘡蓋のこと