(ロスト前髪)

 ある日、浜田の部屋に行ったらカメと目が合って、甲羅からにょきっと伸びた顔が玄関に立つ梶山をじっと見あげ石のように固まっている。ドアノブを握りしめたまま、片足だけ踏み入れた状態で、梶山も暫く動けない。カメがゆっくりと首を傾けるのにつられるようにして首を傾けていると、部屋の奥から浜田が現れた。あ、カジ、いいとこにきた。輪ゴムで括られた浜田の前髪が静電気によってあちこちに跳ね、おかしなことになっていた。アホ面だ、いつにも増して。さらに浜田は胸に小汚い水槽を抱えており、何故か歩き方が蟹股だった。何から突っ込もうかと梶山が口を開きかけたのを遮って、浜田が顎でくいっと指す。とりあえずさみーから閉めて。梶山は突っ込んでいた片足を見おろし、扉の隙間から入り込む三月の冷たい風が足首に当たっているのに気がつく。眼前で、カメがのっそりと動きはじめた。よちよちとしたその動きを目で追いながら梶山は、身体を扉の内側へと潜り込ませ、靴を脱ぐ。

「前髪が目に落ちてきて、つんのめってぶつけた」
 その蟹股歩きはなんだと問うたら、こう返ってきた。浜田の小指からは、いまだに血がどくどくと溢れだしていて、絆創膏に滲む赤色がフロアリングを擦るたび妙に視線がそちらに行く。赤玉土のはいったビニールに今ハサミをいれようとして傾けていた手を、梶山はひょっと止めた。切ってやろうか。へ?と浜田がきょとんと顔をあげるのに合わせ、ハサミをばちばちと鳴らす。いや、いい。遠慮なさらんと。いいって。ハサミを手に浜田にぐいっと近づくと、マジやめてーーーーと顔をのけぞらせて抵抗。そのときハサミの刃先が輪ゴムから飛び出している浜田の前髪のなかにすっとはいった。あ。次の瞬間、梶山の手の甲に金髪のそれがぼとっと落ちた。
 浜田は半ベソでスコップを使って赤土を水槽に敷き詰めていた。なるべく無表情を保ち浜田の方を見ないようにしながら梶山は、水槽にとりつけるライトの角度を調節する。カジ、まぶしい。反射で浜田を見てしまって、梶山はぐふっと噴き出す。スポットライトの光が浜田の金髪を照らし、極端に短くなった前髪を目立たせた。じろりと恨めしげに浜田に睨まれ、ひいひい笑いを堪えながら梶山はライトの角度を変える。カメがのろのろと近寄ってきて、ライトをじっと見あげていた。透明のゴミ袋のなかに、浜田の死んだ前髪が沈んでいるのが見える。土を平らにのばしている浜田の俯いた鼻筋を梶山は見つめた。浜田はカメについて何も云おうとしない。何処からきたのか、拾ったのか貰ったのか、一時的なのか永続的なのか。カメが水槽に足をはりつけようとして何度も滑っているのが、視界にはいった。あ、と梶山は顔をあげた。こいつ、名前なんていうの。浜田がちらっと顔をあげて、また俯いた。
「ヘルちゃん」
 なにその不吉な名前。不吉? だって「地獄」ってことだろ。ちげえよ、ヘルマンリクガメのヘルちゃん。えっそれで? なんちゅう安易な、と梶山は笑う。ヘルちゃんか。ヘルちゃんはまだ水槽に手をあてようとしては何度も滑っている。おまえヘルちゃんか。ヘルちゃんの顎を梶山は撫ぜて、よろしくなと呟いた。




 (ハッピー★ドスコイ)

 カメ? チケットを二枚発券してから梅原は振り返る。梶山は小さく頷き、差し出されたチケットのうち一枚を梅原の手から抜き取った。へえ、と梅原はさして興味もない様子でコンセッションのパネルを見あげている。その梅原の足元を丸く切り取られたライトが縦横無尽に動き回っており、瞼の奥がちかちかと瞬く。カジ、ポップコーン何味? 塩、と即答すると、えーーとの返答。コンセッションのにこにことしたお姉さんに、カレー味Lで、と梅原は事も無げに云う。カレー味ておまえ。そんかわりチュロス奢るから。背後で、ドスコイ!ドスコイ!と声がしたので振り向くと、予告編上映用の大型モニターに何百人もの力士が大写しで映し出されていた。なんの映画だよ。
 チュロスにかぶりつきながら映画の入場時刻までの間を、そのドスコイ映画予告を見ることで潰した。どでかい力士の手のひらが無駄にべたべたとレンズを触っている映像が何度も繰り返し流れていった。あ、カメの世話、交代制な。その梶山の言葉に、梅原がげえっという顔をする。やだよ。カレー味のポップコーンを鷲掴みにして、口のなかに放り込んでからストローでドリンクを吸いこむ。なんでだよ。梶山の問いには答えず、映画のチケットを見おろす。あと5分だな。すでにチケットは梅原の濡れた手でだらっと湿っている。おい、なんでだよ。再び梶山が同じ問いを口にすると、梅原は面倒そうに顔をしかめた。浜田の顔みたくない。ずず、と梶山はストローから冷たい液体を吸い込んだ。舌打ち。まだ喧嘩してんのか。してねーよ、ただあのへらへら顔みてると今はイラついてしゃあないの余裕ないから。そう云って、梅原は梶山の齧りかけのチュロスに横からかぶりついた。梶山はちいさく溜息をこぼす。本当は今日、浜田のアパートに寄っていこうと誘うつもりだったが放課後、梶山の口から浜田の「浜」が出た瞬間それを遮るようにしての梅原の「見たい映画あんだよね」がきやがった。その見たい映画が、コレか。入場がはじまり列が動き出す。もぎとられた半券チケットに記された、「ハッピー★ドスコイ」という文字に気分が滅入ってくる。

 ちっともハッピーになれない、最低な映画だった。




 (餌付け)

 「餌です」広告の裏に油性マジックで書かれた字を見おろして、即座に梅原は携帯をポケットから取り出した。着信履歴に並ぶ「バカ浜田」。通話ボタンを押して、耳におしあてる。「餌です」のうえに置かれた先の尖った緑の葉が、ベランダから流れてくる風でかさかさと音を立てた。ほぼコール音なく、浜田の抜けた声が鼓膜を叩く。ウメ!今どこ? お前んちだよ、と低く答えてから梅原は卓上に置かれた葉を取りあげてクルクルと回す。「餌これだけ?」「うん、まだあんま食わなくて。あと水槽にいれてても食わない、人の手からじゃねえと」水槽から首をぬっと出したカメと目が合う。箱入り娘、という単語が浮かぶ。「あっそ、じゃあな」「ってウメ!待った!」 舌打ち。「何」「すぐ帰る?」なんで、と聞くと、いやなんでもない、と返ってきたので通話を切った。まただ。浜田と話していると、傾く。自分のなかの何かが、ぐらりと傾いていく気がする。カメが梅原の様子をじっと窺っていた。手にしていた葉で目を隠す。
 少しずつちぎりながらカメの口にもっていくというのを繰り返す。はむはむと葉っぱを消化していくのを見おろしていると眠気が押し寄せた。カメの顎を摩ると、首を振って嫌がる。窓に夕日が当たっていた。カメの甲羅がぬくい。浜田の部屋があかくもえている。梅原は、その光景をじっと見ていた。ここで泣くのはだめな気がした。この四角い部屋に依存してしまうようで、だめな気がした。カメ、と呟く。そういや名前しらねえや。おまえなんで浜田のとこにきたの。カメは首を傾げる仕草をして、歯っぱの尖った部分をぺっと吐き出した。お前もしんどいんだな。梅原は笑った。暫くして窓の外から、わらびーもちーわらびもちーつめたくておいしいーわーらびもーちー、というスピーカーをとおしての声が部屋に入り込んでくる。なんと、季節はずれな。

 息を切らしてドアを開くと、部屋はがらんどうだった。浜田は暫く動かず、じっとあかい部屋を見ていた。自分の影が室内に平たく伸びていた。靴を脱ぎ床に足の裏をつけ、息を整えながら鞄をそのへんに放り捨て、水槽のなかを覗く。ヘルちゃんが浜田の目を静かに見つめていた。ただいま。ただいま、と云っただけなのにまぶたが熱くなった。抜け出せない。いや、抜け出したくなくて、このへんをずっと回りつづけている気がする。そして梶山と梅原は、ずっとそれに付き合ってくれている。
 窓から流れてくる風にかさかさと鳴るのは、床に置かれた広告の薄っぺらい紙だった。そのうえに何か重しとして乗っている。浜田が書き残していった「餌です」がバツで消されて、その下に梅原の字がどでかく踊っていた。
『浜田良郎の餌』
 紙のうえにのっていた袋の中身を覗いて浜田は、あ、と呟いた。中にはプラスチック容器がはいっていて、その蓋のうえに再び『浜田良郎の餌』とマジックで書き殴られてある。浜田はそこから輪ゴムをそっと抜いた。ぽんと開いたそこには、透明の歪な形をした塊がぎっしりと詰められていた。添えられていた爪楊枝を袋を破って取り出し、その透明の塊に刺し入れる。黄色の粉がぼろぼろとこぼれ落ちた。口のなかにいれると、微かな弾力の後まろやかにそれは溶けていく。うう、うまい。そう呟いたら、口からぶはっと粉が舞い散った。(あーあ、ウメちゃん、あいしてる。)




 (return to 3)

 甲羅を掴むと、短い手足をばたつかせて空中を掻くカメ。何を考えているのやらわからないその瞳に、梅原の顔が映りこむ。そっと地面におろすと、またよちよちと少しずつ川に向かって前進していく。のぼりきった朝日が水面をでらでらと照らしていた。ネックウォーマーのなかに鼻まで埋めて、梅原はその太陽をぎょろりと見あげた。ポケットに突っ込んだ手のなかの携帯がやむことなく震えつづけている。やっぱ朝はさみーなー。つぶやくと、なんと息がしろい。草叢のなかから梶山が顔を出し、お前も摘めよ、と文句を云う。ずれた眼鏡から覗いた梶山の濁りきった寝惚け眼に、へーいと適当に返す。カメがあと少しで水に届きそうだったので、再び甲羅を掴んで引き戻す。欠伸をこぼして、目尻の涙を拭った。梶山が摘んできた野草のなかから適当に掴むと、それはクローバーだった。四つ葉じゃん。四つ葉のそれを指先でくるくると回す。梶山が振り向いて、土で汚れた指先でずれた眼鏡を掛けなおす。そこにも、あ、ここにもあんぞ。足元を辿っていくと、たしかに四つ葉だらけだった。おや、しあわせがそこかしこに。カメにその四つ葉を差し向けると、ピンクの舌が伸びてきてはむっと銜える。もう餌こんぐらいでいいべ。梅原の足元に摘んだ野草を落として、梶山は伸びをした。また水面に頭を突っ込もうとしているカメに手を伸ばす。
 あ、鳴りやんだ。梅原はポケットから携帯を取り出して、着信履歴を出す。表示された「ヘタレ浜田」の羅列に、ぶはっと笑う。あ、次オレの。梶山の携帯がけたたましく鳴り始めた。その着信音を聞いた瞬間、梅原はさらに噴き出した。カジそれハッピー★ドスコイじゃん! お前が勝手にいれたんだろうが! そのとき梶山の親指が通話ボタンに触れた。『カジ!!!ヘルちゃんが誘拐されっ!』 ぶちっと梶山が思わず通話を切る。誘拐、という単語が梅原にも聞こえた。カジくん、切っちゃうなんてひどい。ひいひいと笑う梅原の目の前に、梶山の靴がぬっと近づく。ケータイ貸せ。え、なんで。いいから貸せ。眼鏡の奥が完全にヤンキーだったので、おとなしく従うことにする。梶山は携帯をいじったあと、再び梅原に突き出す。液晶を見ると、「ヘタレ浜田」へコール中。えー…。もうネタバラシ、と梶山がむりやり梅原の耳に携帯をおしあてる。ぷつっと音がして、浜田の声が鼓膜をぶちやぶった。思わず耳から携帯を離す。そして「ドッキリ大成功」と梶山の視線を感じながら低い声で梅原は呟いた。

 まだ夜が明けきっていないうちに、合鍵で浜田のアパートの部屋に忍び込み、熟睡している浜田に気づかれぬよう足音に気をつけながら、水槽からカメを連れ出した。朝によわい梶山は乗り気じゃなかったが、これで浜田へのストレスは発散できっからと梅原が云うと、なんだかんだついてきてくれた。部屋から出る前に、アホ面で眠る浜田をふたりで見おろして、げひげひ笑った。声を押し殺すのは楽じゃない。梅原の腕のなかで、カメが静かに浅い呼吸を繰り返していた。
 ピンクの生温かい舌が梅原の爪をなめる。おや、しあわせがそこかしこに。なんとなく、そう呟いてみた。梶山が梅原のそばに立つ。暫く沈黙が流れていった。
「ストレス発散できましたか」
 梶山の問いかけに、さあと梅原はとぼけてみせた。カメの顎を中指で撫ぜると、くすぐったそうに首を振る。タバコ吸いたい。禁止。わーってるよ。ぐうと俯いた梅原の視界に、風でそよそよと揺れる四つ葉がはいる。じっと、それを見おろす。
「カジさあ、浜田のことすき?」
 なんじゃそりゃ、と梶山の呆れた声が耳に届く。膝に顔を埋めて、隙間から見える四つ葉が風に揺れるのを見ている。カメは梅原に甲羅に触れられたまま、じっとしていた。触れた手のひらがつめたい。梶山がそっと息を吐き出すのが聞こえた。
「オレはおまえらがすきだよ」
 その瞬間、まぶたに血液が集中するかのような気がして梅原はぐっと堪えなければならなかった。しかしまぶたからこぼれてきたのは血液でなく透明の生温い液体だった。足元に見える四つ葉がじわじわと霞んでいく。梶山に云えることが、自分には一生かかっても云えそうにない気がした。「バカなのに?」平静をよそおって出した声がヘタレ声になった。浜田のこといえないわ、と鼻を啜る。バカだからじゃねえの、と梶山の低い声が返ってくる。……バカは応援したくなんだよ、オレ。

 ようやくあらわれた浜田の姿が酷かった。まぶたは腫れているし目は充血しているし、この寒いのによれたスウェットとTシャツに薄いパーカーを羽織っただけの格好をしていた。ぐしゃぐしゃの金髪が太陽の光を反射して、いやに眩しい。そして何故か浜田の前髪が極端に短い。なんちゅうぶさいく。梅原は笑いを堪えて呟いた。その梅原を浜田がじとっと睨む。倒された自転車の前輪がいまだ回り続けている。
 「おまえらドッキリにしてもひどすぎる!!!」 浜田が近所迷惑な声をはりあげはじめた。「ウメこないだから何怒ってんのか知らねえけど何かしたなら謝るから避けるのだけはやめて!マジ傷つくから!オレ泣いちゃうから!」 どさくさに紛れて、全く関係ないことまで云い始めた。気づいてたのか、と思う。なんだかバカらしくなってきて梅原はカメを抱きあげて立ちあがった。浜田に向かって、カメを差し向ける。こいつ、名前なんつうの。は? 浜田がぽかんと梅原の顔を見る。こいつの名前だよ。
「ヘルちゃん」
 ヘルちゃん? 梅原はカメの瞳を見つめて、もう一度「ヘルちゃん」と呟いた。何そのえろい名前。えろい? 浜田と梶山が同時に聞き返す。だってデリヘルとかのヘルでしょ。ぶふっとふたりが同時に噴き出した。梅原を取り残して、げらげらと笑う。さすがウメ、そっちか。そっちかって何。あ、もしかしてヘルペスのヘルだった? ちがう、と浜田が笑いながら云う。ヘルマン、と云いかけた浜田の顔に、梅原はヘルちゃんを押しつけた。ぐえっと変な声を出す浜田に、もうなんでもいーよ、と梅原は投げやりに云う。こちらを見あげたヘルちゃんと浜田がどちらも変顔まるだしだったので、梅原はついに笑ってしまった。
「な、バカは飽きないだろ?」 梶山が耳元で囁いた。

2013.04.01/The Hermitage