煮込みうどんを選んだのは失敗だった。運ばれてきた器から立ち昇る湯気、予想以上の具の多さに途方に暮れる。田島から渡された割り箸を受け取りそれを割ると、うまく割りきれず細かなささくれ。花井の注文した釜揚げうどんを見てあちらにすればよかったと思う。つるつると花井の口に運ばれていく麺も添えられた天ぷらも実に食べやすそうである。いまさら仕方のないことなので重々しく麺を掬いとり、くちびるで吸い込む。その瞬間、口の中は悲鳴をあげる。熱さと痛さとで叫んでしまいそうだったが、それをどうにか堪えて水をがぶ飲み。少なめに麺を掬って、なるべく当たらぬように奥に吸い込む。味もほとんどわからず汗ばかりが流れ落ちていった。
「そういえば、おまえ今日大丈夫だった?」
 花井の気遣いは時に胃のあたりに鋭く差し込む。さらには、こちらの空になったコップに水をそそぎいれるというさりげなさ。「ああへーき」 「でも危なかったよなあ、もう少しでぶつかりそうだったじゃん」「風強かったしな」「取れたから結果オーライだよ」 喉を落ちていく鉄の味。どうやら舌のうえに血が滲みはじめたらしい。

 9回、ワンアウト、ランナーなし。二番打者カウント1-1。三橋の投げた三球目は内角へのまっすぐ、予想通りそれをレフト方向に打ちあげた打者のスパイクが土を蹴った。風に押し戻されショート後方に流れてくるボールを目で追う。ぎらっと眼球を刺す光、巣山の踵が土をすべりそのまま後ろへ後ろへと迫りくるのに気づくのが遅れてしまう。左翼の守備範囲だと水谷は思っていた、「巣山!」 水谷の声は届かなかった。巣山のグラブが目前で弧を描くのがスローモーションだった、あっと思う、ついで顎に衝撃。バランスを崩した水谷はグランドにひっくりかえってしまった。それでも近付いてきた塁審になんとか左手を掲げてみせると、すこしの間を置いて「アウッ!」 土に塗れながら聞こえてきたそれにこぼれる息。
 手のひらに吸いつくあつい土を擦り合わせるようにして払い落としてから、もちあげた視界にはいってきたのは呆然とした巣山だった。軽口を叩こうと思えば叩けたはずだった。まぶたに流れてくる汗が眼に入りそうになったのをきっかけにくちびるは閉じきった。そこで笑っておけば、水谷の腕を引きあげていたのは巣山にちがいなかった。「大丈夫か」 駆け寄ってきた田島が腕に触れてくる、勢いよく引っ張られ立ちあがった視界が一瞬ぐにゃりと歪みかけたので足の裏に力を込めなければならなかった。「大丈夫アウトだった」 ごまかすように言葉を搾り出すと、ちっげえよ、と覗き込んでくる田島の瞳。「怪我は」「あ、平気」 あちらこちらがひりひりと痛みを滲ませていたがどれも擦り傷の類。「巣山は大丈夫だな?」 曖昧に頷いた巣山の動揺を隠しきれていない眼が水谷のスパイクあたりを辿った。「……ごめん見えてなかった」「いいから戻れって」 目を合わせずに水谷は守備位置に戻り、拾いあげたキャップをぎゅっと深くかぶりなおす。舌の先がびりりと痛んだのはそのときで、試しにそっと舐めとった手の甲に薄っすらと滲む赤。グラブが顎に当たった際に舌を噛んだのだと水谷は思い当たった。手に付着した血を擦り取ってから、息を吸う。後アウトひとつ。青い空、入道雲、土埃、ひりひりと痛むのは舌のせいだけではないようだった。

 夜明けの空気を裂くようにして漕ぐペダル、グランドが見えてくるにつれブレーキを握る手に力をこめる。伸びきった草を踏みしめていくタイヤがからからと。靴底で立てたスタンドが土に沈む、サドルに体重をかけつつ前のめりになって鍵を抜いていると、背後で物音。
「……うっす」
 サドルからおりた巣山の靴底が、とんっと鳴る。それまでじょわじょわと控えめに鳴いていた蝉の主張が急に強まって、耳が夏だった。「おまえやっぱ怒ってんの」、鍵を回していた水谷の動きがとまる、自転車のハンドルに手を置いたまま巣山はひたいから汗を滴らせていた。「昨日から避けてんだろ」
 ちかっと明滅する、あの交錯の瞬間。巣山が背中のまま迫ってくる、あの恐怖。
「巣山はさあ、結局オレのことなんか見えてないんだよねえ」
水谷の目が強い光を放ったのはその一瞬で、そんなものはすぐに掻き消えてなかったことにされた。「……何の話?」 それでも聞き返さずにいられなかった巣山に、「野球の話だよ」、と水谷は笑ったのだった。着替えを済ませた泉が通りかかったのをきっかけに、水谷はいつもの調子でそちらに走っていって金網の向こうへ。巣山の足は動かなかった。地面に縫いとめられたまま、わけもわからない動悸で耳が心臓だった。そのとき、水谷は振り返る。あっけらかんとしたかおで、あの緩い目を細めた。
「超痛いよコレ」
 かすかにひらかれたくちびるから、だらんと垂れた舌。見せられて息を呑む。その赤く爛れた水谷の舌に。耳にはいっていたはずだった、あのときの水谷の声が今になって巣山の身体をつよく揺さぶった。

2010.5.16/ファウスト的衝動