エアコンが生温い風を定期的に吐く図書室にて。この公式、そう一言だけ呟いて阿部は鉛筆をルーズリーフに走らせる。閉じかけていた水谷の瞼が上がった。掠れた声でお礼を述べて、阿部が探し当てた数式を見つめる。 数字の羅列、方程式、エヌやらエスやらイコールやら、そういったものが脳内を巡って笑いが漏れた。なに笑ってんの、阿部がノートに数字を並べながら言う。水谷の口元が更に緩んだ。だってわからなすぎて。水谷の愚痴を無視して、阿部は数式を書き連ねていく。そして瞬く間に答えを導き出してしまった。これでバカでもわかんだろ。皮肉にわらった阿部に、どうせオレはバカですよと椅子に背中をつけて伸びをした。部活以外で阿部と過ごす時間が増えている、と思った。水谷は阿部の睫が時折震えるのを見た。それはまるで初めて見るもののように水谷の目に映る。
 校舎を出て、太陽が落ちる瞬間を見た。冷えた空気が鼻の奥をつんと溶かしていく。隣に阿部がいることが可笑しいと思う。水谷は自転車に鍵を差した。阿部の漕ぐ自転車が前を進む。車も人も皆無の赤信号で、きっちり停止した阿部の隣に自転車をつける。さむいね。さむいな。夏も同じような会話をしたように思う。沈黙が降り積もっていく。くだらないことを言っては笑う水谷が二人を苦手とすることを阿部は知っている。阿部の口が開きかけて、しかし何も発さず閉じた。信号が青に変わる。阿部の自転車が動き出して、それを追うように水谷もペダルを漕いだ。
「なんか言いかけなかったー?」
「言ってねー。」 
 声を張り上げた水谷に阿部の声がすかさず重なった。澄んだ空気が喉を通って肺を満たしていく。水谷の瞳の中を阿部の背中が泳いだ。太陽が落ちきって、白い光を灯らせた月がまるで銀幕のように垂れ下がってくるのを水谷は見た。

 あの日の阿部が何を言いかけたのか知らないまま、水谷は日々を送っている。

2008.11.29/ともだち