マフラーを忘れてしまった。首もとを曝しているというだけでこんなにも寒いものだろうかと泉は思った。飲み物だけ適当に買ってきてと浜田からメールがあったので途中コンビニに寄る。会計を済ませ外に出た途端、冬の空気に肺が膨らむ気がした。吐き出す息が白い。携帯を見ると6時を少し回っていた。
 行く、と答えたのは気まぐれだった。体育終わりに階段を駆けあがっているとき浜田に突然、ウメカジと鍋すんだけど来ない、と言われた。振り向くと浜田に階段下から見据えられている。ふと以前にもこんなことがあったような気がした。およそ反射的に泉は、じゃあ行くと答えた。それに声を上擦らせたのは浜田の方だった。
 階段をのぼりきり、息を整えてからアパートのブザーを押す。手元でがさりと袋が揺れる。ペットボトルが2本入っているため、指にビニルが食い込んでいた。その重みに項垂れていると風がまともに首裏を撫であげる。瞬間、歯がガチガチと鳴った。暫くして物音が聞こえたので顔をあげると、ドアが開かれた。その隙間から出てきたのは浜田ではなく梶山である。あ、ちわす。泉が軽く会釈すると梶山もそれに返した。あいつ今ウメと買出し行ってるから。入ってと言われて泉は足を踏み入れる。今日さっみいよな。梶山が鼻を啜りながら後ろ手でドアを閉めた。
 泉が室内に足を進めると其処はむわりとした空気に覆われていた。以前来たときは夏だったが、そのときとはまた違っていると泉は思った。フロリングにカーペットが敷かれてあるし、炬燵も置かれてある。すでに天板の上にはコンロがあり鍋の用意がされていた。飲み物買ってきたんすけど。あ、んじゃ冷蔵庫いれといて。泉は袋からペットボトルを出して冷蔵庫を開けた。その際、奥の方に缶ビールがあるのが垣間見えた。暫しそれに見入った。冷気が頬を掠めていった。
 あったかいよ。梶山が炬燵に潜っている。泉も背中を丸め其処に潜り込んだ。炬燵布団を捲るとき、その内側が熱により橙に染まっているのが見えた。足指からじわじわと温もりが伝わってくる。疲れてんね。今日も走り込みだったんで。そうかあ、と梶山が言うのと同時、玄関先が騒がしくなった。お、帰ってきた。泉が視線をあげると、両手に袋を持った浜田が入ってくる。あ、泉きてた。お邪魔してマス。おお部活おつかれ、と浜田はそのままシンクの方に向かう。その後ろから梅原が顔を見せた。おっ泉くんお久しぶり。どうも。梅原は着ている上着を脱ぐと、梶山の隣に足を潜り込ませた。ウメ切んの手伝えって! むーりーさみいもーん。浜田は文句をこぼしたが、暫くすると材料を水で流す音が聞こえ始めた。
 キムチの素がぼとぼとと鍋にそそぎ込まれる。そこに野菜と肉を放り込めば、その匂いが泉の鼻先を掠めていった。浜田が泉の隣に潜り込んできたので横に少し身体をずらす。入ってくんなよ狭い。おまえね、これオレの炬燵。ぶは、と梶山が笑う。煮えていく鍋の中身を泉は呆と見つめた。浜田と触れている肩が熱かった。
 肉を頬張りながら梅原がテレビを点けた。映し出されたのはバラエティ番組だった。画面から光が滲みだす。泉は麺を啜ってから烏龍茶を飲み干した。熱さと辛さで喉がひりついている。梅原がスポーツニュースにチャンネルを切り替えた。それは偶々プロ野球の契約更改についてを特集している。お前らん中でさあ、プロ考えてるやつとかいんの? 梶山がテレビに目を向けながら言った。 豆腐を掬いながら泉も画面を見る。さあ、そういう話しないんで。でもやっぱ目指すヤツ出てくんだろうなあ、と浜田が呟いた。無意識に泉は浜田の肩を見た。肩の周囲に光の輪が何重にも見え、瞼が重たく圧し掛かる。泉は目を逸らし、再び画面に視線を移した。
 その後、分担して片付けを済ませた。だらだらと菓子をつまみながら炬燵で過ごしているとき、ふと泉が時刻を確認すると10時過ぎだった。慌てて炬燵から足を抜き立ち上がる。梶山となにやら話していた浜田がそれに気付いた。帰んの? おお明日も早えし。ってもう10時じゃん! 梅原と梶山も立ち上がり、帰り支度を始める。窓に目をやるとガラスに水滴がびっしりと付着していた。その結露は室内との温度差を窺わせた。ふと泉は思いついて言う。なあ浜田マフラー貸して。忘れたんだよ、と手で首筋を撫ぜる。おおそのへん掛けてあっから見て。浜田が指差したベッド脇のコート掛けにマフラーも何枚かかぶせてあり、泉は適当に黒のを掴み取った。そのときベッドとコート掛けの溝に何かが転がっているのが見えた。泉は思わずそれを見下ろす。息が詰まった。それは見覚えのある、煤けたグラブだった。
 アパートを出て暫くすると梅原が呟いた。浜田テンション高かったな。嬉しかったんじゃねえの、と泉を見て梶山は笑う。いつもあんな感じっすよ。泉がこぼすと、前を歩いている梅原が振り向いた。そうじゃねえときもあったよな。まあなァ、と梶山が頷く。泉は何も返せぬまま、ただ黙々と歩きつづけた。先程見たグラブが脳裏にちらついていた。あれを部屋に転がしつづけた浜田のことを思った。頬が火照っている。寒くはなかった。泉はマフラーを外した。途端に冷たい夜風が肌を刺す。

2010.12.27/エトランゼ