目覚めてすぐ視界端で瞬いているものがある。田島は手を伸ばし携帯を引き寄せながら再び瞼を閉じた。捲れた毛布の中で身体を縮こまらせていると、寒気が爪先から徐々に這い上がってくるようである。鼻先まで毛布を引っ張りあげ薄く目を開けた。握り締めたままの携帯が冷たい。そのランプが明滅し続けている。うつ伏せになり、携帯を開く。液晶の眩しさに瞬きしつつ、新着メールの表示を押す。適当に流し読みをして右上に表示されている時刻を確かめてからいそいそと起き上がった。床に足裏をおろしたときの背筋の伸びる感触、その冷たさ。
 静まる教室で、紙の擦れるのやペンを走らせるのだけが響いていた。最後の問題に取りかかるところで、教卓上に掛かる時計を確認した。教師は目を伏せて何かを読み耽っている。手元の問題文に目を通す。このときのAの心情をあらわしているのは次のうちどれか。早々に記号を書きこみプリントを裏向けて其処にうつ伏せる。握っていたペンを机に転がし鐘の鳴るまで小指付け根のマメを摩っていた。
 チューブから粉を絞り出す。歯ブラシにのせ歯に当てる。磨きながら右足で左足首を擦った。襟足を冷えた空気が撫でて身震いする。口内が泡立ってきたので吐き出す。うがいをしていると母親に呼ばれた。洗面所から顔だけ出すと、洗濯物を抱えた母親がそれに気付く。試験いつまでだった? んー明日まで。タオルで顔をぬぐい、居間に向かう。卵焼きの甘い香りと味噌汁から立ち昇る湯気に迎えられる。
 柔軟を一通りやった後、田島は走りはじめた。前方から吹きつける風が頬を撫で、短く吐き出された息が白く散っていく。走りながら無意識に小指の付け根を撫でている。それは昨日よりも更にざらついているような気がする。田島が一歩踏みしめる毎にスニーカーの擦れる音が朝の静けさを進んでいく。空がそろそろと光を帯び始め田島の周囲を纏っている。休日の朝は人気もなく、実に走りやすい。
 何周目かで身体の芯が熱を持ち始めた頃、田島はふいに足をとめた。グランドのフェンス近くに花井が立っている。田島はその場で足踏みしながら首を捻り、後ろからそうっと花井に近付いた。金網に掛けた花井の右手が昇り始めの太陽光を浴びて眩しい。ニット帽から覗いた耳が赤く染まっている。田島は距離を縮め、後方から帽子を摘み上げた。驚き振り向いた花井が田島をみとめ目を見開く。たっ、じまお前、驚かせんな! 花井から奪ったニット帽をかぶり田島は金網に凭れる。何してんの?今日は学校休みだぞお、とけらけら笑う。何って、勉強会だっつの。べんきょお? 図書館開放してっからな、つかお前にもメールいったろ。きてない、と返そうとしてふと考えた。そういえば早朝に泉からのメールを見たような気がするが寝起きだったのであまり記憶がない。ああアレかと呟くと花井に睨まれる。ちっとはやべえって自覚しろ。花井の吐き出す息が白く周囲に舞った。
「じゃあ田島何でいんだよ」
「ん、ランニング中」 花井と同じように金網に手を掛けた。目が合う。「なに?」
「……おまえ毎朝走ってんの?」
 暫しの沈黙の後、さみい、返せ。花井にニット帽を奪い返されその温もりが遠ざかる。ほんとにさっびいい。田島は金網から離した手を擦り合わせて花井を見上げた。花井は目を合わせないように斜め上に視線を彷徨わせつつ、あいつら遅ぇなとぼやいている。だしぬけに田島は右手を花井の着ているパーカーのポケットに突っ込んだ。花井はぎょっとしてポケットに入れていた手に力を込める。お、あったけえ。田島の指先が花井の手に触れている。そのざらついた感触に花井は震えた。おまえ冷たすぎ。走ってたからな、と笑う。ちょっと温もらせて。
 がしゃ、と金網が鳴った。網に掛けた花井の右手が少しそれに食い込んでいる。触れている方の手が徐々に温もり始めていた。人肌恋しい季節だよなあ、と田島は呟く。花井の右手が更に金網に食い込んだように思う。ってよりバットが恋しいんだけど。田島はするりと手を抜き、早く野球してええとこぼした。
「あ、泉と巣山きた」
 振り向くと2台の自転車がゆたりと近付いてくるのが見えた。たっじまあお前メール返しやがれコラ、と泉が叫んでいる。やべ退散しよ。は!?おまえ来ねえのかよ。着替えたら行く、と田島は背を向けて家の方向へ走り出す。
 部屋に戻りウェアを脱ぐ。曝け出した肌に冬の空気が纏いつく。着替えながら携帯を開いた。受信メールの一番上を押す。泉から届いているのを確認してから携帯を閉じる。明日はグラマーだったよなあ、と散乱した机上から教科書を探す。掻き分けていると机から何冊か雪崩れ落ち、その中に現国の文字を見る。そこでふと仄かに温もりの残る右手を眺めた。自分のに比べて、花井の手はそれほどざらついていなかった。あのときの花井の目が脳内にちらつき苛立つ。現国の教科書を適当にぱらぱらと捲るとふいに昨日試験で出たものが目にとまる。迷いなく書き記した答え。あれは果して正しかったのだろうか。

2010.11.06/Aの心情