夏だな、と阿部は思った。水谷が三塁ベースを蹴って、汗を散らしながら可笑しな形相で駆け抜けていく刹那。華麗にスライディングした後、額や頬に土をべったりとつけた水谷が顔をあげた。返球されたボールは捕手のミットにきっちりと収まっている。審判が拳をあげるのと同時、阿部は立ち上がりグランドに向かう。水谷が身体についた土を払っている。雨はあがったばかりだった。スパイクが土に沈む。


 夕暮れは過ぎ去った。水飲み場では、全身がずぶ濡れの水谷。蛇口から水滴が膨れあがり、そこに水谷の上半身が映っている。日が落ちきった後でも、蒸蒸と夏の獣が周囲を這っていた。薄青の中、水谷の裸がてかつく。背後でカラスの鳴き声がした。木々の枝が気配に揺れる。阿部は水谷の背後から手を伸ばし、水道の蛇口を捻った。錆びた蛇口の感触が指の腹を擦る。勢いよく溢れ出した透明水に、阿部はタオルを浸す。隣で、水谷の動く気配。タオルを絞りながら、水谷の脛を見やった。ユニフォームの裾を膝まで捲りあげているので、傷口があらわになっていた。べろりと捲れた皮の内側から滲む血が、いかにもベースで擦ったものですと主張している。ちゃんと消毒しとけよ。蛇口を閉める水谷の手が泥まみれのままだった。髪からも睫毛からも水を滴らせ、うあー沁みる、と掠れた声でこぼす。呼吸に合わせ上下する水谷の肩。なまぬるい風が身体を舐めていく。濡れたタオルを首筋に当てた。お前、ああいうときは走り抜けた方がいいぞ。もーそれモモカンに言われたって。……あ、っそ。水谷の頭に、タオルを飛ばす。瞼が重ったるく、視界の端から徐々に侵食してくる夜の気配。背後から飛んでくる花井の張った声に、行くぞと水谷を促す。タオルをかぶったままの水谷が、再び蛇口に手を伸ばす。その横顔には影が差している。
「阿部はさあ、なんで野球やってんの?」
 唐突な、質問だった。は? 水谷を見おろしたまま呆ける。なんだその質問。水谷の髪の先から水が今にも滴り落ちそうだった。蛇口から水は溢れ続けている。身体を捻るようにして、水谷が阿部を見あげる。タオルが地面に落ちた。水谷は、にいいと笑った。なんとなく、聞いただけ。蛇口を閉め、脱ぎ捨てていたアンダーを拾う。水の打ちつける音が消えると、静寂が耳朶を覆う。あー身体中痛え、風呂沁みんなあコレ。大袈裟に足を引き摺るようにして水谷は篠岡の方へ歩いていく。落ちたタオルを拾い、土を払った。疲労感がどっと首の裏あたりに圧し掛かってくるのがわかった。空には月が出ていた。篠岡に消毒をしてもらっている水谷の丸まった背中を見る。手の中のタオルが風に煽られている。


 うっひょお、また明日から早起きして走りこんでからの守備練、夕暮れまで延々と打ち続けるバットとお友達な日々が始まろうとしてんのかあああああ、と水谷が卓に突っ伏す。阿部はドリンクの透明蓋にストローを突き刺しながら、バーガーを包み紙から剥がす。窓際のカウンター席に着いてから水谷がひとりで喋り続けるのを適当に流し、窓の外を過ぎていく人々の流れを無意識に追う。時々さあ、思うんだよ。水谷がポテトを口に放り、ストローをがじがじと噛む。練習終わりとかにさあ、べろべろに捲れた手の皮とかを見るじゃん?痛いし、つうか汚ねェし、しかもいっつも吐きそうだからね俺。メンタル弱いから傷ついてるし、ぼろかすに言われるし、泣きそうだし吐くし。そんな思いまでして、毎日土に塗れてると、高校生活これで終わってくの?!とか日々、自問自答っすよ。バーガーにかぶりつき、自身の歯型の残る箇所を阿部は眺めている。唇についたソースを舐めとり、頬杖をつく。阿部とかは、そんなことでぜってえ悩まねェだろうけど、って聞いてる? 上目遣いの水谷と眼が合う。
「悩んでんの?」
 ポテトを齧りながら阿部が言うと、水谷は再び卓に突っ伏す。窓から差し込む光のせいで、色素の薄い水谷の髪が余計に朱く見えた。阿部の指先にも橙が揺らぎ、それが手の甲へと移っていく。阿部に話してんのが、オレもう末期。じゃあ話すなよ、うっぜえから。
「……阿部にうざいって言われた、ああもうだめだオレ」
 おまえ、ちっとも悩んでるように見えねえんだけど。失礼な!悩んでます! 何を、と阿部が聞く。水谷は相変わらずストローをぐじぐじと噛んでいる。窓の外、バイクが走り抜けていく轟音がする。……こう、オレの青春的な、何かについて。ふうん、と阿部はトレイにドリンクを置く。なにそのどうでもいいかんじの! あーもう面倒くせえな、じゃあお前はなんで野球やってんの?言った瞬間、阿部の脳裏に過ぎったのは何故か水道の錆びた蛇口だった。あれ、と思った。水谷は答えず、頬杖をつき窓を指の腹で擦っている。太陽は沈み、外の景色が青闇に色を変えていく。すげえ寒そう、外。曇る窓ガラスを水谷が指で辿るのを、阿部は目で追う。水滴が伝い落ちていき、窓枠に溜まる。あーもうどうでもよくなったや。水谷がイヒイヒと笑ったので、阿部もつられて笑った。そうして笑ったら思い出しかけたはずの何かを忘れてしまった。阿部くん、もうすぐ春ですが、何かやりたいことはありますか。野球、と阿部が即答すると水谷は紙コップを握り潰す。つっまんない回答ありがとう。齧っていたストローを抜き、包み紙を丸め、トレイを重ねて立ち上がる。水谷。ゴミを捨てている水谷の背中に阿部は呼びかける。んー? トレイを戻してから水谷が振り向く。
「好きだろ?野球」
 阿部には、聞くまでもない問いだった。水谷の答えも、わかりきっていた。
「好きに決まってんじゃん」
 水谷は笑った。夏だな、と阿部は思った。水谷のこの奇妙な笑い方を見たのは。ずっと以前から、水谷とこうしているような気がした。何度も、水谷につられて笑ったような気さえした。そして阿部の知る限り、水谷の笑顔の八割が嘘っぱちだった。

2012.2.06/アカサビ